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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2025年04月20日(日)

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人の振り見て我が振り直してしまう

投稿日:2008年10月15日(水)

傍若無人に振る舞いたいなら、他人の文章は読まないほうがいいなと思った。俺のことだ。

「人のふり見て我がふり直せ」なんてことわざは、余計なお世話としかいいようがないのだが、いざ他人が俺と同じようなことをしているのを見ると、ことわざに従うつもりはまったくないのに、自分の「ふり」を直してしまう。

たとえば、ちょっと気に入らない内容の本があったので、意地悪く酷評してやろうかと思ったとする。俺はまずWEBで検索して、同じ本を他の人がどのように評価しているか調べる。これは誰でもやるだろう。すると、たまたま見つけたサイトで、俺が考えていた以上にねちねちとその本をこき下ろしていた。それを見て俺は急に萎えてしまうわけだ。

もし、そのサイトを見つけていなければ、俺も同じことをやっていた。しかし、俺は見つけてしまった。俺は、俺がやろうとしていた行為を他人がやっている姿を見て、その馬鹿さ加減に呆れてしまう。誰かを馬鹿にするという行為は自分の馬鹿も同時に晒してしまうということだろうか。それに気づいてしまうと、もう書けない。書けるわけがない。

けれども、そんなことを繰り返していると、自分がどんどん「よいこ」になっていくのがわかる。「よいこ」は他人を傷つけない、迷惑をかけない、波風を立てない。文章を書く人間が「よいこ」になるのは、すなわちその他大勢、頭数、いてもいなくていい人になってしまうのと同じだ。文章を書きたいと思う根本には、他人に何かしら影響を与えたいという衝動があるはずなのだ。欲求なんて生やさしいものじゃない、衝動だ。その衝動が「よいこ」になっていくことでどんどん弱くなっていってしまう。こんなこと書いたら誰かに何か言われるかなあ、馬鹿だと思われないかなあ、俺が言わなくてもいいよなあ、と。

だからといって、一行目で書いた「他人の文章は読まないほうがいいな」というのも、間違っているんだけどね。あ、またひとつ「よいこ」になってしまった。
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文章は砂の城

投稿日:2008年10月15日(水)

書いていた文章が突然消えてしまう。よくあることだ。

エディタの場合、パソコンの不調や操作ミスでデータが消えてしまうということは希にある。自動保存が設定してある場合は致命的なことにはならないが、それでも自動保存されるまでの間に書かれた文章が消えてしまうのはショックが大きい。

Blogの場合は、もう何回も経験している。本当についさっき、およそ800字分ぐらい書いた文章が、なんだかよくわからないけれどもブラウザが閉じてしまい消えてしまった。実生活において「呆然とする」のは、まさにこのときだ。演技ではなく、身体の動きが止まってしまう。目を見開く。くちびるが何かを言いたそうに微妙に振動をはじめる。頭をかいてみる。「え」と声をだしてみたりする。自分が変な呼吸をしているのに気づく。下あごをゆっくりと力を込めながら小さく回転させるように動かす。思い切り、息を吸う。

ちくしょう!

家の人がいるので声に出さず心で叫ぶ。机を殴る拳をぎりぎりのところで止める。

まあ、いいか。


こんなとき、俺は砂の城を連想する。砂浜で作っていた砂の城が、突然崩れ落ちる。俺は呆然とする。ある人は言うかもしれない。もう一度作ればいい、と。たしかにそうだ。さっきまでの城を構成していた砂はまだそこに、ある。しかし、同じ砂はそこにあっても、同じ城を作ることは、難しい。材料の問題ではないのだ。

文章も同じなのだ。文章を構成していた語句は頭のなかに、ある。けれども、それらを使ってもう一度同じ文章を書くことは、難しい。記憶力のある人なら、一字一句再現できるかもしれないが、それは置いておく。もう一度書いたとしても、最初に書いたものとはどこか違う文章になってしまう。

ちなみに、そんな気分を詠ってみたのがこれだったり。

ゆとしょ! ゆとりある俺の小説ブログ 観念の砂浜

それはともかく、今回のこれは消える前に保存だ。



書き直すということ

投稿日:2008年10月14日(火)

しかし、古い自分の作品を、今の自分の考えで書き直してしまうのはいいことなのだろうか。

俺は純粋信仰とでもいうべきものにとらわれている。純粋信仰という言葉が実際に存在するか知らないが、俺がいうのは純粋への信仰心のようなものだ。すなわち、純粋なものにこそ価値があり、純粋であることが至上の喜びである、と。

だから、作為を嫌ってしまう。さらには、「作為」だけではなく、「作意」さえも嫌悪の対象になってしまう。推敲は悪であり、書き直しは堕落だ。知性に汚されていないまっさらな自分からの、生まれたままの言葉にこそ価値があるとする考え方だ。

もちろん、こんなのは間違っている。自分でもおかしいと思う。いや、おかしいと思わねばならない。これは創作の全否定だからだ。

純粋へのあこがれは、子どもへのあこがれでもある。子どもの何気ないつぶやきにドキリとしたり、ときには世界の真理を垣間見たりすることは、よくある(言うまでもなく、それは錯覚なのだが)。だからといって、大人になった自分が子どもへ戻ろうとするのは、信仰なんかじゃない。ただの退行なのだ。

今回もよくわからない。自分でもよくわからないから文章にしてみているのだが、なおさらわけが分からなくなる。

とりあえず、昔の作品を否定するのではなく、あくまでも新しい創作のタネとして尊重することで自分に折り合いをつけようと思う。

好きな言葉は「没個性」

投稿日:2008年10月10日(金)

個性が無いという意味での没個性、良い言葉だ。そういう日本語が存在するかは知らないけれども、俺は好きだ。

個性なんて言葉は今では陳腐すぎてなかなか口に出せないものだが、昔の学校では本気で「個性を伸ばそう!」などと叫んでいたのだ。だいたい、個性ってなんだよ。どういう意味に受け取ってもらいたいんだ。それに、伸びたり縮んだりするものか。遠回しな言い方しなくてさ、はっきり言えばいいんだよね。スポーツ大会や弁論大会や絵画コンクールで上位に食い込む生徒になれってね。我が校の名前を全国にとどろかせ、と。少なくとも、俺の学校はソレだった。田舎の、農家の子どもしかいない学校で何を期待しているんだか。当時の担任の好きな言葉「おまえらはどんぐりの背比べだ」だったかな。可愛い。

それはともかく、当たり前に使われている言葉ほど、危険だ。

恐らく、「個性」という言葉に持たせている意味は、俺のなかでも、あなたのなかでも、当時の学校でも、全部違うと思う。才能や資質、あるいは差異といった言葉と同義になっているかもしれない。辞書を基準にすればいいと思われるが、広辞苑をひいてみても、何の解決にもならない。

でも、面白い言葉だ。「個性」とは抽象的な概念だけれども、個性そのものは抽象化される際に捨て去られたほうのものだからだ。だから、個性とは何かを説明することは辞書的にはできるが、個性そのものは何かと問われたら、もう自分自身を見つめるしかないのである。だって、個性なんだから。

俺は、個性なんてものは、なんだかよくわからないと思っている。もちろん、他の人を見て、あの人は個性があると直感することはできるが、その個性の正体がなんなのかはわからない。そりゃ、他の人と違っているなんてのは見ればわかることでしょうに。

そういうわけで、俺はあえて「没個性」を掲げて生きる。意味は、わかんない。まあ、でも、みんなと同じがいいじゃん。

特別な人になろうなろうとがんばると、いつか死にたくなるよ。

 

焦っている自分に焦っている

投稿日:2008年10月10日(金)

焦ったからといって何ら能力が加速されるわけでもないのに、昨日から心臓の鼓動が、ヤバイ。

正確には首筋から後頭部、左耳の後ろあたりが嫌な緊張感をもって脈動している。視線は上下運動を繰り返す。何かを考えながら上を見て、すぐ落ち込んで下を見る。その間隔が機械的すぎたので自分でも気がつかなかった。なんで部屋が揺れているのだろうと思っていた。

時計の針の音がなぜか腹のなかから聞こえてきた。念のため時計が本来あるべき場所を見ると、あるべき場所にあった。そうなると今度は時計の音が気になって、その二拍子のリズムがある強制力をもった行進曲に聞こえてくる。連想されるのは学校の運動行事で、ああそういえばもう10月10日だから世間一般では運動会のシーズンなのかとため息をつく。

一度イメージしてしまうと、土埃と汗と小便の匂いが混じった小学校の運動会の記憶が引きずり出される。嗅覚が抱え込んでいた記憶だ。同時に、母の作った稲荷寿司と粉っぽさの残る唐揚げの味、俺の大好きな味が口の中に広がっていく。味覚の記憶だ。

突然あたりは暗くなり、自分が細い果樹園の道を歩いているのに気づく。ふいに、耳の奥で今まで鳴り響いていた運動会の喧噪――子どもたちの歓声とスピーカーから流れるおなじみの曲たち――が消え、コオロギの鳴き声と疲れた足で砂利を踏みしめる音とすぐ側にある国道をひっきりなしに走るダンプカーの音が聞こえてくる。学校の帰り道だ。

果樹園を抜けると農協の真四角な建物が現れる。その入り口にある白くて丸い大きな時計は、いつも9時37分で止まったままだ。農協は古い。時計も古い。でも、昔は動いていたはずだ。それを見るたびにちょっとだけ神経を痛めた。

時計のイメージが俺を現代に戻した。

俺は今、パソコンに向かってキーボードを叩いている。そう、叩いている。リズム、リズム、リズム、文章はリズムで書くのだ。考えない。感じない。こうやってさっきから叩いているだけで、ここまで来た。さあ、そろそろ止めるのだ。

止めるのは、簡単。

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小瀬朧
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