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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2025年04月20日(日)

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俺って可愛い

投稿日:2008年10月09日(木)

いうまでもないが、俺は俺が好きでたまらない。ナルシシストだ。(辞書をひいて気づいたけれども、ナルシシストが正しいようだ。あ、シが一個多い。知らなかった。メモ。でもシーシー気になるからナルシストと書く。)

しかし、たとえば友人に「俺はナルシストです」なんていうと即座に「あなた馬鹿ですか」と返される。どうやら俺の見てくれがあまりにも小汚いので彼の持つナルシストのイメージにそぐわないらしい。俺は俺が美しいと思うけどなあ。外見ではなく、心がさ。いまどきいないぜ、こんな純粋な人間は。

ともあれ、文章を書こうという人間はナルシストが多い。俺もそうだ。俺が小説を書きたいなんて思うのは、自分がナルシストだからに他ならない。ああ、それにしてもナルシストはいいぜ。最高の気分だ。ナルシストなら、どんな悲劇だって自分を際立てる材料になるのだからね。

だからもう俺はとにかく自分のことが書きたくて書きたくて、うーん、書きたい。……変な文だな。

ところが、この世でもっともどうでもいいのは、他人自身の話なのだ。一番聞きたくない。気が置けない旧来の友人であっても、その自慢話にはうんざりするし、ましてやどこの誰ともわからない人間の訳の分からない話なんて真剣に聞く人はいないだろう。

さて、本題だ。

書き手は自分自身のことが書きたい。読み手は書き手自身のことなんか読みたくない。この関係を何とか打ち破らない限り、Blogなんてものは無視され続けるだけだ。このBlogは日記です、なんて逃げを打ってあるが、本当は俺だってもっと多くの人に読んでもらいたいと思っている。結局は自分をひけらかしたいだけだけど。

おそらく、プロと素人の何が違うのかという核心がこのあたりにありそうなのだが、どうだろう。俺にもつかめないかなあ。




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ないないだらけの文章

投稿日:2008年10月09日(木)

自分の文章は否定が多い。うすうす気づいてはいたが、そろそろ向き合ってみる。

できない書けないわからない。

ないないない、とそんな文章ばかり書いている。(意識していないという意味での)無意識にそういう構文を好んで使っているのだろうけど、ちょっと多すぎると思う。

そんな文章ばかり書いていれば気が滅入ってしまうのは当然だ。俺はとにかく間違っている、正しいものはどこか別のところにある、そんな考えが根底にあるからだろうが、つまりは自分にだめ出しの連続なのだ。

わかりやすくいえばこうだろう。俺が書けないのは、自分に問題があるからだ。自分が間違っている。その間違っている自分を否定すれば、正しい何かが見えてきて、書けるようになる。そう思い込んでいるのだ。もちろん、間違っている自分を否定したからといって、正しい何かがどうして見えるのか、根拠なんかまったく「ない」。

ちょっと短絡的になるが、否定とは創造の前段階であるべきだと思う。新しいものをつくるために古いものを壊すという考え方だ。この考え方は、正しいかどうかはともかく、よく耳にしたことがあると思う。そして、それは俺もよくわかっているつもりだった。

ところが、俺は壊すことばかりに夢中になっている。これから何かを創るための破壊なのに、俺は壊すことに酔いしれてしまった。俺の心は瓦礫の山だ。瓦礫のなかを彷徨っていると、そのうち破片のひとつひとつがパズルのピースであるかのように錯覚する。この瓦礫の破片をすべて組み合わせれば、ひとつの巨大な美しい絵ができるのではないかと考える。そうして俺は手に取った破片をあちらこちらから眺めながら、見当違いな品評をひとりではじめるわけだ。

なんとむなしい光景だろう。

今書いているこの文章も、そんな瓦礫のひとつであるのだけれどもね。だから、たまには前向きなことをつぶやいてみる。

――今のままでいいじゃん。




だから本は売るなと思う朝

投稿日:2008年10月07日(火)

見つからない。

ずっと捜しているのだけれども見つからないのだ。何を捜しているのか、わからない。捜していれば、わかると思って、ずっと捜している。

ちょっとした記憶の、朝の混乱が、本棚にしまわれた懐かしい一冊に光を当てる。無心に手を伸ばすのだが、そこにはもうなにもないから、なにもつかむことはできない。

題名さえも忘れてしまったその本は、どこにいったのだろう。自分にとっての喪失の感覚は、いつも右頬のあたりにあって、左肩の少し下のあたりからその右頬の部分に向かって空虚な風が流れ込んでいるように思える。そんな感覚があるから、右頬を隠すように頬杖をついて、ただぼんやりとしている。

古本屋に行くたびに思う。棚を眺めていればいつかその本が俺を呼び止めるのではないかと。

もちろん、そんな本は最初から存在しなかったのかもしれないけれども。

朝の空っぽ感

投稿日:2008年10月07日(火)

自分が、がらんどうだ。

今、自分がどこの時代にいるのか、何をするのか、すっぽりと抜け落ちてしまっている感覚ともいえる。

こんな朝、もしも真っ白な何もない部屋で目を覚ましたなら、たぶん俺は原始の気分を味わえるだろう。始まりしか存在しない世界。

けれどもじっさいは、枕元にも、足元にも埃くさい本がちらばり、乱雑であることが唯一の救いとなっているゴミ箱のような部屋で目を覚ます。終焉という言葉を無闇に使ってみたくなる、死の気配がそこらに漂う、そんな世界。

だから、こうやって書くのかも知れない。

すでに誰かが考えている

投稿日:2008年10月06日(月)

同じ時代の、同じ国に住んで、根本が同じ教育を受けて、だいたい同じものを見て聞いて体感しているから、ものの見方と考え方が似てしまうのは当然なんだろうか。当然なんだろうね。

とくに、何かを書くということをしている場合、他の人と同じことを書いてしまうのは面白くない。もちろん、読者にとってだ。書いている本人は何か特別で、斬新で、個性的なことを書いているつもりなのに、読者からすれば、ああよくあるパターンですね、ということは頻繁にあるはずだ。

ここで創作の話にこじつけるのだけれども、大量に本を読んでいる人が必ずしも小説を書けるとは限らないのは、自分自身の発想や考え方がすでに誰かのものと同じなのに気づいてしまうからではないだろうか。何かを思いついても、ああこれって○○と同じだよなあ、と。そうなると、恥を晒さずにすむという意味では賢明だし、時間の無駄にならないという点では経済的だし、無用に神経を痛めないから健康にもいい。よほど独創的なものを思いつかない限り、自分から小説を書こうとは思わないだろう。

ところが、この考え方もすでに一般的で、やはり誰でも思いつくところなのが、悲しい。さらに、わかっていながら書いてしまうのが、滑稽。ああ俺の限界。限界、限界、そう、限界だ。

ところがところが、これぐらいのことで何か結論を出した気になってしまうのはよくない。何もここで終わらせることはない。その先へ向かえば良い。誰に言っているかって。もちろん、俺にだ。

創作における個人の限界は実はスタート地点に他ならない。今朝、唐突にそう思った。直観というやつだ。「感」じゃなくて「観」のほう。その思考過程をなんとか言語化しようとしているのだがなかなか思うようにいかない。とにかく、限界を感じたから諦めるというのは論外なんだ。本当に諦めるべきなのは、限界を超えたその先でだろう。

「すでに誰かが考えている」というのは諦める理由にはならない。誰かが考えているからこそ、その先があるのだ。

だから俺に言っているんだって。

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プロフィール

HN:
小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


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