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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2025年04月19日(土)

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知っているか知らないか

投稿日:2008年11月29日(土)

小説に限らず、創作に関するノウハウやテクニックが今はどこにでもあふれている。本屋に行かずとも、ネットで検索すれば何を見たらいいのか迷うぐらい大量にヒットする。一般に公開されていないグループ内だけの知識交換も、mixi等のコミュニティにおいて盛んらしい。少なくとも、インターネット以前の、個人が手探り状態で創作をしていた時代とはまったく違うのだ。

そうなると、「知らない」ということは「怠惰」と同義になってしまう。感傷的な書き方をするなら、純真無垢な己の感性だけに頼っていては、創作は成り立たないということだ。既に今の時代、完全なオリジナルを生み出すのは途轍もなく難しくなっている。自分ではオリジナルのつもりでも、「○○に似ていますね」とか「○○と同じです」と言われることは、よくあるのではないか。私は昔書いていた詩に「立原道造に影響を受けていますね」と感想をもらったことがある。慌てて本屋に走り、立原道造の詩集を買った。立原道造を読んだことがなかったからだ。私の詩が本当に立原道造風であったのかどうかは、もしかしたらその読者の恣意によるものかもしれないが、何にせよ、私の作品がそれだけ独創性に乏しいものだったということには間違いない。

私はこのBlogで、小説の書き方がわからないとよく書いていた。実際は、そんなの嘘だ。「書き方」なんてかなり知っている。書き方をたくさん知りすぎたために、逆に書けなくなっていたというのが本音だ。書く前に知識だけが先行してしまっているのだ。これは私だけではない。ネットで「小説が書けない」と告白している人の大半は、知識不足ではなく、知識過剰になっているのではないか。その証拠に、創作以外の文章、たとえば本の感想や日々の雑感で、雄弁になっている人は実に多い。偏見かもしれないが、小説が書けないと嘆く人ほど、小説以外の文章はスラスラと書いているような気がする。

先に書いた、「知らない」ことが「怠惰」だとするなら、「知りすぎている」のは何になるのだろう。雑誌やテレビが情報源だった時代に比べれば、今の時代は個人が得られる情報は莫大な量になっている。かといって、人間の脳の処理能力が比例して向上しているという話は耳にしない。

まったく、よくわからない。というか、既に自分の処理能力は限界だ。

オチはない。






たとえば、何か一冊の小説指南本だけを信じるというやり方も考えつく。しかし、いざやろうとしても「もしかしたらもっと別の正しい方法があるかもしれない」と考えてしまう。

 

※※※
追記

だったらいろいろな本のエッセンスをまとめて自分なりのノウハウを構築すれば……ということも考えつく。ただそれをやっていると、自分で書くよりもこのノウハウを他人に教えたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。小説の書き方を求める人はたくさんいる。彼らを相手にサイト運営するなり商売するなり……うーん。

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創作する恐ろしさ

投稿日:2008年11月28日(金)

ここ数年の間にたいした数の作品は書いていない。しかし、それらを見返してみると、自分自身がいたるとこに見え隠れしていることに気づいてしまう。

自分自身とは、自分の生き方、考え方、ものの見方、状況判断等のことだ。完全な創作、架空の話、虚構でありながら、そこには紛れもなく自分の世界があるのだ。書けば書くほど、自分を晒しだしてしまう。
 

本当なら、今書いているこのBlogの日記でこそ、自分がどういう人間であるかがわかるはずなのだ。普段、このBlogでは、多少はキャラを作っているが、正直に思ったままのことを書いているつもりだ。それなのに、どこか嘘くさい。こんなときは「韜晦」なんて言葉が思い浮かぶけれども、結局は嘘の自分を表現していることには違いない。

ところが、これが創作になると、創作された作品のなかに、隠しようのない自分自身が現れてしまう。まったく不思議だ。しかも、自分が意識していない「自分」までいたりする。創作という壮大な嘘をついているはずなのに、実は正直に自分を告白しているのだ。

もちろん、これは別の考え方もできる。創作のなかに自分が現れているのではなく、創作のなかに現れた「それ」を見て、自分が逆に形成されているという考え方だ。本当の自分に気づいたのではない、「気づいた」と思った瞬間に、自分が作られたのだ。

このことは、他の人の作品やそれに関する苦悩を見てもなんとなくわかるので、もしかしたら一般論に近いのかもしれない。




 

懐かしい百科事典

投稿日:2008年11月28日(金)

なんで捨てちゃったんだろうなあ。

子供の頃、うちには子供用の学習百科事典が二種類もあった。一つは名前を忘れてしまったのでネットでも探しようがない。もう一つは「学習百科大事典アカデミア」というもの。それらがあったから、昔はわからないことがあれば、百科事典で調べるのが当たり前というかそれが日常だった。しかし、十年以上前、もう子供向けの百科事典はいらないだろうと思って全部処分してしまったのだ。そして、平凡社の「世界大百科事典」を買った。

ところが、文章を書くようになって気づいたが、世の中の出来事や仕組みを知るには子供向けの百科事典のほうがわかりやすいのだ。たしかに「世界大百科事典」ぐらいになれば、専門的なことまでいろいろ載ってはいるが、では理解できるかというと非常に難儀する。理解をするためにはそれなりの基礎学力が必要なのだ。ようするに、まったく何も知らない状態から、ある物事を知ろうとした場合に、大人向けに百科事典というのはあまり役に立たないということだ。

それと同じ不満をネットでも感じる。Wikipedia等がそうだ。ネットで何かを調べるとたいていはまずWikipediaの項目がヒットする。Wikipediaの記述はかなり詳しい。しかし、それがいけない。専門的な知識を求める人には有り難いかもしれないが、まったくの門外漢が見る分には煩雑すぎて理解できない。情報を正確にしようとするあまり、ありとあらゆる細かい部分まで書き込まれているため、結局何が重要なのかわからないのだ。

その逆もある。項目によっては、編集する人が少ないためか、大雑把で適当で投げやりなものもあるのだ。なかにはあきらかに専門外の人の思い込みで編集された項目もあったりする。たとえば「物語の類型」という項目を見ると、「物語の類型」とは何かがよくわかっていない人がトンチンカンな記述を加えている。

なんだか話がそれた。

まあ、あとはWikipediaに限ったことじゃないけれども、ネットに頼りすぎると知識がどんどん断片化していくよね。難しいことは知っているのに、以外と基本的な部分がわからなかったりするのが悩みどころだ。

だから、子供向けの百科事典が懐かしいなあと思うわけだ。文章を書く上でのちょっとした知識の欠落を補うのには、子供向けぐらいにわかりやすいほうがいい。



*****


ここまで書いて気づいた。別に、ネットに存在する子供向けの学習ページを見るのでもいいってことだな。

ある日世界は動き出す

投稿日:2008年11月26日(水)

世界といっても、自分が属する狭い範囲のことだけどね。

ヒキコモリニートをずっとやっていると、毎日が何の変化もなくだらだらと過ぎていく。そのこと自体はもう慣れちゃったから平気なんだけど、自分がまるで時空間から隔絶されて、取り残されているような錯覚に陥ることがある。これは誇張じゃなくて、精神がちょっとおかしくなっているから、現実の感覚だ。

なんていうんだろうなあ。本来、自分がいるべき場所と時間はもう遙か遠くにいってしまっているような感覚といえばいいか。列車に喩えるなら、自分が乗っていた車両が切り離されてしまったともいえる。切り離されてしばらくは惰性で一緒に走っているのだけれども、だんだんとスピードが落ちていき、最後には止まってしまう。まあ、誰が切り離したかって、それは紛れもなく自分自身なのだから、自業自得のそしりも免れないだろうけどね。

ところが、それはあくまでも喩えであって、現実の自分自身は完全に時間と空間から切り離されているわけではない。止まることはできない。たまりにたまったしわ寄せのようなものが、ある日とつぜん、自分に向かって一気にやってくる。

観念的な話しかできないけれども、たとえば、ちょっとした偶然がいろいろ重なりだす。偶然は偶然なのだから、偶然が重なることだって偶然の範疇なんだろう。それでも、偶然に意味を与えるのは人間の知性に他ならないのだから、やっぱり何か意味があるのだ。つまり、自分自身の内部において、何らかの変化が起きつつあるということだ。うーん、具体的な話ができないのがつらい。さすがにプライベートを暴露するほど行き詰まってもいないし。

当たり障りのない範囲で書くならこうか。急に自分が望んでいた知識が手に入ったとか、なんとなく買った古本が自分にとって重大な意味を持っていたとか、メールの整理をしていたら古い友人からメールが来たりとか。

自分は動くつもりがないのに、世界のほうが勝手に動き出している。

ちなみに、これを悲観的に捉えるなら、世界がそろそろ俺を精算しようとしているとも……。



1200字縛り

投稿日:2008年11月22日(土)

怪談がはたして小説なのかという話は別として、3日に一作ぐらいのペースで怪談を書いては某所に送りつけている。

そうはいっても、送ったのはまだ3作だし、1200字を書くのに3日もかかるのは遅すぎると思う。目標は一日一作だ。

あと、いろいろ考えるのはちょっとやめるように努めている。とにかく、アイデアというかネタが尽きるまで書いてみて、その後、本当に何も書けなくなったら、そこでおしまいにする。

今はまだ自分の記憶に残っている他の作品のエッセンスを無意識に盗作しているレベルの作品しか書けていないから、すべてを出し尽くしたあとに、本当に自分のオリジナルが書けるかどうかが勝負どころだろう。

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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


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