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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年04月20日(土)

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だから何だの先へ

投稿日:2008年10月01日(水)

朝起きてコメントの返信をしたり何か書いたりしようと思ったらBlogが朝9時までメンテナンスだった。

ところで、こういう日記形式のBlogって、普通は言葉にしないものをあえて書いているわけだよね。小説を書けない悩みだの創作のこだわりだのなんてのは誰もが持っている。それなのに自分だけが特別であるかのようにとうとうとまくしたてているさまは、人によっては不快以外のなにものでもない。思慮のある人ならこう思っているかもしれない。まずその口を閉じろ、と。

読みモノとしてのBlogを成功させるコツはまず自分を消すことだ。誰が言ったか知らない。誰も言っていないかも知れない。俺の直感にすぎないのかもしれないが、文章とはそれ自身に意味があるのであって、それを書いている人間の自己主張など読者にとってはどうでもいいのだ。書き手の自己主張が文章じゃないのかと思われるかも知れない。しかし、よくできた文章というのは必ずしも書き手の自己主張ではないと思う。自己主張が褒められるのは、おそらくは学校教育における作文だけだ。作文の読み手は先生と親ぐらいのものだろう。しかし、Blogにしても小説にしてもそこには必ず読者がいる。実在しなくてもいい。誰一人読まないのであっても、文章が文章として成立できるのは読者がいるからだ。ああ、自分でもわけがわからない。

カンタンに言ってしまえば、読者にとって書き手がどう考えているかなんてことはどうでもいいってことだ。おまえのことなんか知ったこっちゃねーよ、だね。書き手ってのは、大仰にブンガクについて悩んで見せたり、言葉の乱れを嘆いて見せたり、あの手この手で結局は自己主張したいだけだったりする。俺ら素人が素人のままでいる一番の理由は、文章に対する姿勢が、視線が、個人的な範囲を超えていないからではないだろうか。

ここで、安易に「自分」という言葉を使ったことに少し心配する。個人的なことを書いても面白い人はいるし、自分を消したら逆に個性がなくなってしまうのではないか、という声も聞こえてくる。「個性」という言葉もたちが悪いな。こういう単純で身近な言葉にこそ恐ろしいモノが潜んでいるのだから怖い。それはともかく、逃げているわけにもいかないから、俺のもてる力で真っ正面から説明してみる。たまには、がんばる。

安っぽい箴言めいた言葉を思いついた。こんなのはどうだろう。

  自分を書くのではない。自分を通して書くのだ。 

なんのこっちゃ。うまくいえねぇ。というか、いえると思っているのか、俺は。何と戦っているのだ。ああ、助けて。

ひらめいた。きた。おりてきた。こんなのはどうだろう。

たとえば、空について書くとする。俺ら素人は、空を見て美しいと思った自分を書きたがる。空を見て美しいと思える美しい自分をアピールしたいだけだ。しかし、プロは違う、と思う。空を見て美しいと思っている自分を書くことで、空の美しさを表現する。自分というのは、空の美しさを書くための道具のようなものにすぎない。

この喩えはよくないなあ。こんなのだったらどうだろう。

たとえば、社会について書くとする。俺ら素人は、社会のなかで苦しんでいる自分自身を書きたがる。こんなにも苦しんでいる自分を見てください、と。しかし、プロは違う。社会のなかで苦しむ自分を書くことによって、社会そのものを表現する。

これって、三田誠広氏の本に書いてあったことと同じな気がする。違うかも知れないけど。無意識のパクリか。

最初に戻るけれど、いくら「このBlogは日記です」と逃げを打ってあるとしても、やはりまっとうな文章として存在させるには読者について考えないとならないな。創作に関する悩みを書くことで、ただ自分のことを書きたいだけなら、それはよくないだろう。そうではなく、悩んでいる自分を通して、創作に関する「何か」を読者に伝えないとならない。それが、先に書いた「自分を消す」ってことなんだけど、俺の表現の限界だ。

寝る。



いや、寝ないけど。
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作家は巫女か?

あるエッセイの中で、五木寛之が言っていました、「自分は巫女みたいなもので、神託をのべているだけ」と。
 このことは、管理人さんの言ってらっしゃることと文脈を同一にするのではないでしょうか?
 ただし、自分は、他人の文章を読んでいるとき、結構、「彼はどんな人間なんだろう?」と思ってしまう方です。思ってしまうとは、とても受け身な言い方で、「お前はどんな人間だ!?」と目を充血させて、問う態度ではありません。読んでいると、頭の中にあるスクリーンにそっと映し出されるのです、作者の顔が。もしかしたら、優れた文章とは、そのようなものなのかもしれません。上記の五木寛之や花村先生が紡いだ文章なぞは、まさにその好例と言えましょう。
 しかし、そういう文章を目指すためには、まず「自己主張」を徹底すべきだと思います。飽きるほど、それをこなした後で、生まれた文章こそ、黄金の輝きを持つのではないでしょうか。

>>uenoさん

uenoさんこんにちは!

巫女、信託とはなるほどと思いました。さすが作家は言語化が見事ですね。五木寛之先生の作品は実は読んだことがないのですが、敬愛する花村萬月先生の作品で考えてみるとよくわかります。先生のほとんどの作品は個人的な体験がベースになっているのにも関わらず、表現されているものは個人的な体験を超越している。もう唸るしかありません。

自己主張は、うーん、個人的にもっともトラウマな部分が「自己主張」というキーワードに結びついているのです。私はつねに自分が間違っているという「確信」をもって生きています。まあ、何かが過去にあったのですが、それでも最近は恢復してきましたよ。こうやっていろいろ書けるようになりましたから。

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プロフィール

HN:
小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


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