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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年04月29日(月)

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モノの名前の増やし方

投稿日:2008年10月09日(木)

新聞の折り込みチラシだ。

ほぼ毎日新聞と一緒に届けられるいろいろなお店のチラシだ。俺も会社員だったころは自分の店の折込広告(チラシのことね)を作ったりもした。どんな商品を載せるか、いくらで売るか、知恵を絞ったよ。

さっき、なんとなく眺めていて思ったんだ。これって、モノの名前を知るのにすごく役立たないかなって。ええ、ごめん、素で感動しているんだ、俺は、今頃。

ホームセンター、ドラッグストア、インテリア、ファッション、食品等、身近なモノはたいていチラシがある。とくに男性が苦手だと思う、女性のファッションの種類とか、台所用品とか、インテリアとかはチラシを見れば基本的な名前がどんどんわかる。よく知っているモノなのに、そういえば名前はなんていうのだろうというアイテムはけっこうあるからね。

さらにチラシなら、一般に通じる名称で書かれている(商品名は置いといて)。それはつまり、小説で使っても間違いないということだ。たぶん。

ああ、今まで気づかなかった俺はアホだ。じつをいうとさあ、真面目に子供用の図鑑とか欲しいなあと思っていたのよ。モノの名前を知らないからさ。しかし、図鑑には身近すぎる日用品なんて載っていないだろうからどうしたものかなあ、と本気で悩んでいた。やっぱり俺って、可愛い。

とりあえず、役立ちそうなチラシはストックして置くことにする。それに季節感を出すアイテムが何かよくわかる。ちなみに、今の季節はそろそろ「鍋」らしい。どこのチラシを見ても「鍋」とそれの「具材」がこれでもかというぐらいアピールされている。

くだらない?







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~がわかる

投稿日:2008年10月08日(水)

ダイソーで買った『間違いやすい日本語辞典』を見て初めて気づいた。ちなみに100円。

○ 事情わかっていない
× 事情わかっていない

解説にはこう書かれている。
「知る」や「理解する」は「~を知る(理解する)」のように「~を」の形で使われますが、「わかる」は「~をわかる」でなく「~がわかる」と使います。漢字で「分かる」と書くように、「わかる」のもともとの意味は「別々になる」で、そこから、物事の区別がはっきりする、内容・事情などが理解されるというふうに意味が転じました。本来は、人ではなく物事のほうを主語とする動詞ですから、「~がわかる」という形が正しいのです。
 

これはまったく知らなかった。たぶん今までかなり間違って使っている。

広辞苑をひいてみる。

わかる 【分かる・別る・判る・解る】 《自五》
(1)きっぱりと離れる。別々になる。
(2)事の筋道がはっきりする。了解される。合点がゆく。理解できる。
  「よその言葉が―・らない」「文学が―・る」
(3)明らかになる。判明する。
  「試験の結果が―・る」「犯人が―・る」
(4)世情に通じて頑固なことを言わない。
  「話の―・った人だ」

(3)の例文でいうなら、「試験の結果をわかる」「犯人をわかる」では、口に出してみるととたしかに違和感があるな。

これはメモにでも書いてモニターに貼っておかないと間違ったまま使い続けそうだ。あぶねぇ。

最後と最期

投稿日:2008年09月24日(水)

誤用を指摘されたとかの話じゃなくて、自分の好みの問題だけどね。

「最後」と「最期」の使い分けは、感傷的な文章が好きな人ならこだわりを持っていると思う。字面と言葉のお遊びも含めて、たとえば「一日の最後」と「一日の最期」では、受け手がどう捉えるかは別として、かなり大きな違いがある。正誤の問題でもないぜ。込められた意味の違いだ。

一言でいうなら、死の匂いだ。

どちらがより強烈かといえば、もちろん「最期」のほうだろう。「最期」には続きがない。新たな始まりはない。もうおしまい。本当に本当に、終わり。「一日の最後」のあとには次の日があるけれども、「一日の最期」にはもう同じ日は二度とないという感傷が含まれている。その日一日をひとつの命となぞらえている。そういう意味では、「一日の最後」は夜の11時から12時直前ぐらいまでの時間帯かその人にとっての最後、つまり寝る時間を示しているだけだが、「一日の最期」ではその日そのものが終わる、死ぬという情況が見えてくる。

だから、普通の文章ではうかつに使うことはできない。詩でもないのにうっかり「~の最期」と書いて、その意味が伝わらずにただ笑われるだけというのは嫌だ。

ちなみに、「最期」というのは命の終わりを表す言葉だ。念のために辞書をひいたらあっていた。よかった。「最後」のほうは辞書をひくまでもないだろうけど、並んでいるものの一番後ろという意味だ。と思ったけど、こちらも念のために辞書を見たら「臨終。死。最期。」とあったから、人の命の終わりに使っても間違いではないのだ。

命の終わりを表すということは、「最期」を使うことによってそのものに命があったことを暗に示す効果もあると思う。このへんは俺の虚構を含んだ感覚だから話半分に聞いておくれ。

だから、ある人が無意識に「最期」を使うときは、その対象を命あるものと見ているときかもしれない。思い入れがあるのだ。「ノートの最後にさよならと書きました」と「ノートの最期にさよならと書きました」では伝えたいことがまるで違ってくるだろう。前者は単にノートの最終ページのことであるが、後者はノートそのものに何か強い思い入れがあるように思えないだろうか。というかそうとしか思えないか。

音声にするとどちらも「サイゴ」だけど、漢字で見るとまったく意味が違ってくるんだよね。

※※※
もちろん、単純に誤変換しているときもあるだろうけどねー。

道路を照らすオレンジの灯り

投稿日:2008年09月21日(日)

あれの名前はなんだろう、とずっと昔から思っていた。トンネルの灯りもたぶん同じだよね。オレンジ色の道路照明灯、あれがとても好きだ。

なんとなく今日調べてみたら、見つかるもんなんだね、すぐにわかった。あれはナトリウムランプというらしい。ナトリウムランプの、オレンジ色の灯り。

ナトリウムランプ!

なんてステキな名前なんだろう。俺はうれしくなった。ナトリウムの光が夜の道路を照らしている。ナトリウムランプはゲルマニウムラジオにも通じる幻想的な言葉の響きだと思う。ついでにいうと、ハロゲンランプという響きも好きだ。キセノンランプもそうだ。キセノンヘッドライトというほうが身近かな。クルマのヘッドライトに使うやつ。他にもあるだろうな。暇なとき調べよう。

今まで名前がわからなかったモノが、名前を知ることで今までより明確に自分の支配下における。しかし、名前を知る前までの、言葉にできなくてぼんやりと頭に思い浮かべていたあのオレンジ色の灯りはもう戻ってきそうにもない。俺の頭の中を充たしていたオレンジ色の灯りは、ナトリウムランプという音の響きに置き換わってしまったのだ。

ちと感傷がすぎるか。

 

あなたたちは一生「商」が書けません

投稿日:2008年09月13日(土)

小学校の思い出だけどね。

今の学校事情は知らないけれども、昔は生徒をよく廊下に立たせていた。昔ってのがどれぐらい前なのかは秘密な。俺らは立たされる側の人間だったから、どんな理由で廊下に放り出されたのかはよくわかっていない。子どもの悪さに自覚はないのだ。とにかく先生にとっては怒るべきことをしていたのだろう。その日も何かで怒られて数人が教室から追放されたわけだ。

国語の授業だった。しばらく廊下に立たされていた俺たち数人が許されて教室に入ると、黒板には大きく「商」と書かれている。新しい漢字だ。先生は言った。

「教室にいた人たちはこの商の字を習いました。でも廊下にいたあなたたちは一生書けません。困りましたね」

これは、困った。俺はもう一生「商」が書けないのだ。学問は厳しい。

その後俺は独学で「商」の字を学んだ。


 

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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