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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年04月28日(日)

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夢のなかの本

投稿日:2008年09月22日(月)

昨日から一睡もしていない。ぜーんぜん眠れなかった。文字通り布団の上を転げ回っていた。いつもなら酷い悪夢にうなされるはずなのに寝ることすらできなかった。

寝ていないのに、強烈な本のビジョンを見た。

確かに寝ていなかったのだから夢ではない。何度も何度も寝返りをうっていると、突然、それまでガチャガチャと騒いでいた意識の周辺が沈黙した。急激に意識が視覚の一点に集中していく。するとまぶたを閉じているはずなのに、目の前に一冊の本が現れた。本といっても絵本のようで、本全体がデフォルメされた樹のような形をしている。開かれたページは樹木の緑に縁取られ、中央には空と海が描かれている。その下には砂浜があって、そこに文字が書かれていた。

それは日本語だった。読める文字だった。意識を集中するればするほど、その文字は明瞭に見えてきた。一字一句読み取ることができる。漢字の分量が多い文章だった。その瞬間は読むことができたのだけれども、今となっては何が書いてあったのか思い出せない。「かかる思惟は」という部分だけ覚えている。人間の思考について書かれた文章だったはずだ。思い出せなくて残念。

しかし、これは仕方がないだろう。現実の世界においても、たとえばなんでもいいから本を一瞬ぱっと開いて、そのページに書いてある文章を一度読んだだけですべて暗記するなど、できないからだ。こういうとき、記憶力の悪さを悔やむ。

この記事のタイトルを「夢のなかの本」としたのは、現実的に考えれば、この体験そのものがおそらくはすでに夢のなかの出来事だからだ。そういうことにしておきたい。眠れずに覚醒している状態で、あれほど明確なビジョンを見たとしたら、俺けっこうやばいじゃん。

イメージとビジョンの違いはかなり自己流な定義だけど、イメージはふだん頭にぼんやり思い浮かべているときのそれだけど、ビジョンは実際に映像が視覚に浮かび上がる体験だ。

うーん、こういう体験の積み重ねが、凡人を教祖にしてしまうのかもしれんね。怖い。


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階段

投稿日:2008年09月17日(水)

夢の要素の一つに「階段」がある。これは特別珍しいなことではないと思う。自分の場合はどこまでも階段を「飛び降りる」夢をよく見る。階段を、飛び降りるのだ。

学校なのか病院なのか会社なのかわからない。暖かみのない無機質な空間で、白や薄い水色の壁とぼんやりとした蛍光灯、静かに反響する靴の音、あるいは病院の匂いを感じることもある。

俺はその階段を小走りにどこまでも下っている。その先に何があるのかはわからない。下っているうちにだんだんと飽きてくるというか小さな挑戦心のようなものが芽生えるというのか、階段のステップを一段、二段、三段と飛ばしてみるようになる。手すりにつかまっている手をガイドにして滑るようにジャンプする。四段、五段、六段、いくらでも飛ばせるように思える。そのうち、一気に踊り場まで飛び降りられることに気づく。おそらく、手すりにつかまっている限りはどこまでも飛び降りることができるだろう。そう考えた。(念のために書くけれどもこれは夢のなかの話なので真似しないでください)

踊り場まで一気にジャンプできるようになってもまだ物足りない。だから今度は踊り場が迫ってきても着地せずに、手すりにつかまる手を支点に身体を180度回転させる。そうすれば次の階段が目の前にある。その下には次の踊り場が見える。その踊り場についたらまた空中で向きを変えればどこまでも飛び降りることができるのだ。足を床につける必要はもうない。

いったいどこまで続く階段なのかわからないけど。

こういう夢はともかく、スピリチュアル系で階段のメタファーは必須だ。天国地獄のイメージもそうだし、人間の上下関係なんていう言葉にも表れているように、人間とはどうやら上下方向に特別な意味を感じ取っているようだ。上にいくほどあかるくきれいで下にいくほどくらくて汚い。立派な人はイメージ的に上方向にあり、ダメな人間ほど下方向にある。そのメタファーを現実のものにしたいがためなのか、たとえば会社において社長室はほぼ間違いなく最上階近くにあるし、ホテルにしても高級ルームほど上の階にある。さすがにダメ社員や貧乏人を地下室に押し込めることは(たぶん)ないけれども。そして、階段はその上下をつなぐ接点であり通過地点であり、またある種の人々にとってはより上のステージを目指す希望の象徴だったりもするのだ(大人の階段のぼるなんて歌もあったよね)。

魂の階梯や悟りの階梯なんて言葉があるけれども、どうしても宗教観がつきまとってしまうので、語るためには慎重にならざるをえない。深い意味や正しい定義は置いておくとして、まあとにかく「上」へ昇って行けよ、ということなんだろうけどね。

逆もある。どこで得たイメージでどんな理論なのか今となっては判然としないのだが、人間の心の奥深い部分、いわゆる深層心理とか無意識とか呼ばれる領域へのアクセスは「階段を下りて」行くのだ。すでに「心の奥深い部分」という言葉を思わず使ってしまっている時点で、洞窟や地下といったメタファーにとらわれている。

昔聞いた癒し系の催眠CDでは、目の前に階段があるとイメージしてそれを下りて行きなさい、そうしてその先にあるドアを開けなさい、ドアの先にいるのが本当のあなたです、という意味合いのフレーズがあった。結局、何にも会えなかったけど。

クトゥルフが好きな人なら、これって夢の国でしょ、というかもしれない。あれもたしか何百段だかの階段を下りて行くからね。

これらのことから、俺がよく見る階段の夢が珍しいものではないといえるのだ。もちろん、上に書いた知識を得る前、保育園の頃から階段の夢は見ているので、やはりほとんどの人間に共通するイメージなんだと思う。たぶん、誰もが階段の夢を見ているのではないだろうか。

ちなみに、俺の夢の場合、ごくまれに階段の終わりに到達するのだけれども、そこには恐ろしいものがある。ある、というか、いる。あるいはこの世のものではない世界だったりもする。当然、逃げようとするのだが、結末はいうまでもない。









終わらない夢

投稿日:2008年09月16日(火)

子どもの頃は当たり前のようにできたのに、気づくとまったくできなくなっていた。

怖い夢や嫌な夢を見ているとき、これは夢なんだから目を覚ませばいいんだ、という単純きわまりない理屈で強引に目を開けて現実世界に戻ってくることが昔はできた。小学校に入る前までぐらいだ。今考えてみると、信じられないような高等テクニック(?)を実践できていたのだ。まず夢のなかで夢と気づくことが難しい。夢だと気づいても、そこから現実世界の肉体にアクセスしてまぶたをこじ開けるのも難しい。もちろん、単に眠りが浅すぎただけかもしれないけれども。

保育園児だった俺でもそのテクニックは凄いとわかっていたらしく、よく周りの子に自慢していた覚えがある。俺は夢から無理矢理覚めることができるんだぜ、怖い夢でも平気だぜ。とはいっても、だからなんだ、という反応しか返ってこなかったが。

あるとき見た夢では、俺は保育園の庭でみんなと一緒に円になってぐるぐる廻っていた。お遊戯のようだが自分たちの輪の周りを弓を持った兵士がぐるりと囲んでいた。そして輪が一歩動くたびに一人ずつ射貫いていった。それが死を意味することは五歳の俺にもわかった。ただ殺されるためだけに一歩一歩進んでいくという理不尽な状況に恐怖以上の怒りを覚えた俺はこの世界の放棄を決意した。俺の前の子が射貫かれ、いよいよ自分の番が迫ったとき、俺は渾身の力をふりしぼりまぶたをこじ開け夢から覚めることに成功した。目が覚めてから少し後悔した。もう少し早く夢を終わらせていれば、俺の前に死んでいった子たちも助かっていただろうにと。

こんな芸当は小学校にあがるぐらいになるともうできなくなり、奇妙な能力を持っていたという記憶だけが残された。もう一度試してみたいと思っても、夢のなかで夢と気づくことがすでに難しくなっていた。また、夢そのものが自分にとっては楽しい世界だったので、わざわざ目を覚ますこともないと考えるようになっていた。記憶はだんだん薄れていき、忘れたことも忘れるはずだった。

ある日おばあさんが死んだ。

大好きなおばあさんが、死んでしまった。昨日生きていた人間が、今、死んでいる。死んでいるということはどういうことか。身体は俺の目の前にあるのに、もう二度と目を開けることはないということだ。それは、永遠に、だ。永遠とはなんだ。永遠とは、ずっとだ。ずっと、この先ずっと、ずっと、絶対に。絶対とはなんだ。絶対とは、絶対だ。本当にこれは絶対なのか。絶対だ。本当に、本当か。本当だ。もう二度と絶対、永遠に、目を開けることはない。つまり、これが、死なのか。

理解できない状況に陥ると、人は驚くほど陳腐になる。それは俺も同じだった。泣きながら布団に潜った俺はこうつぶやいた。

「これは夢だ」

そう、夢だ。こんなことが現実にあるわけがない。現実にあるわけがないのだがら、夢だ。夢ならば終わらせればいい。記憶の底から、昔できたあの技、保育園の頃には当たり前のようにできたあの能力のことを引きずりだした。あれは今こそやるべきなのだ。目を、現実世界の肉体のまぶたをこじ開けるだけでいい。そうすればこの夢は終わる。夢から覚めれば、おばあさんは生きている。そして俺は思うんだ。とても嫌な夢を見ていたなと。すべての意識を集中し、俺はまぶたを開けるための神経回路を探した。今自分が感じている肉体は幻だ。このまぶたは本当のまぶたではない。感覚を超越し、意識を現実世界の肉体に戻すのだ。昔は簡単に、できたのだ――。

一晩、がんばった。火葬場へ向かう早朝のバスの中でも、がんばっていた。火葬場の待合室でもがんばっていた。白い壺に、燃えかすみたいな白い残骸を、長い箸を使って入れているときも。帰りのバスの中。読経。正座でしびれる足。茶碗で食べるうどん。線香の匂い。誰もいなくなったおばあさんの部屋。

なぜ俺の本当のまぶたを開かなかったのだろう。なぜ、昔はできたのに今はできなかったのだろう。陳腐に始まったものは陳腐に終わる。悲しいけれども、それが普通の人間なんだと思う。陳腐なんだけれども、俺は眠りにつくためにつぶやいた。

「これが現実なんだ」












悪夢はどこからやってくる

投稿日:2008年09月15日(月)

毎日悪夢の連続なんだけれども、今日は酷かった。自分の夢で吐き気がした。

俺は女と一緒にいた。ショートヘアーの小柄な女で、カーキ色の作業着のような服を着ている。年齢は20代にも見えるしそれ以上にも見えないことはない。俺はその女と一緒にどこともわからない建物の廊下を歩いていた。非常に嫌な気分だった。ベニヤ板で作ったような粗末なドアがあった。女がドアを開けると、狭い部屋があった。部屋の中にはスチールの事務机が一つと、背中を向けたスーツ姿の男が一つあった。その男の姿をしたモノは首にロープをかけたまま天井からつり下がっていた。

女は死体芸術家だという。

これはステキなんですよ、とスーツ姿の男をトンと押す。ゆっくりと回転しながら正面を向いた男の、おそらくは顔だと思われる部位は、無残にも膨れあがり歪んでいた。俺は生理的な恐怖を感じた。少しでも触れば内部に充填されているドロドロの液体が強烈な臭いとともに噴き出してくるようで恐ろしかった。俺は逃げ出したかったが、女の何か魔術的な力がそれを許さなかった。だから、夢からも覚めなかった。

女に連れられ別の場所へと向かう。ここは死体がかつて生きていた世界を想像し、死体でもって彼らの生活や最期を再現しているのだという。それが彼女の芸術だった。今歩いている場所はいつしか廊下からアスファルトに変わっていて、巨大な筆で描いたような黒く長い線が緩やかにのびている。筆の役割をしたモノは、人間だ。線の終着点には両足だけが原型をとどめたそれが一台のクルマに挟まったままになっていた。アスファルトよりもドス黒いこの線も、描かれた瞬間だったなら、まだ真っ赤だったのだろう。

次に訪れた場所は、図書館だった。柔らかい午後の光が差し込む静かな図書館だった。ここに死体は、ないらしい。悪夢からの解放を予感した俺に、女は一冊の本を差し出した。粗末なカバーはわら半紙のようで、白い紙が栞がわりに挟まっている。そのページを開くと、死体写真だった。最初に見たスーツ姿の縊死体がモノクロ写真になっている。俺は本を閉じた。女はもっと見ろという。まだまだ、ここにはたくさんあるのだから、と。

ようやく目が覚めた。

ここはたしかに俺の部屋だ。体中が痛い。変な姿勢で寝ていたから悪夢を見たのだろう。夢だとわかっても、まだ心臓の鼓動は早い。布団に入ったまま、なんとなく部屋の隅に目をやるとそこにはロープを首にかけた男の姿が……見えそうで怖かった。なにやら空気に不吉なものを感じた。自分の部屋なのに怖くて堪らない。部屋から逃げ出して両親のもとに行こうとも思ったが、自分の年齢を思い出すと、再び布団に潜り込んだ。

俺は女と一緒にいた。ショートヘアーの小柄な女で、カーキ色の作業着のような服を着ている。女は俺を待っていた。もう一度最初から見ますか、とあの粗末なベニヤ板のようなドアを指し示している。手には、わら半紙のようなカバーに包まれた本を持っている。なるほど悪夢とはこういうものなんだな、と夢のなかの俺は納得しかけていた。終わらないのだ。終わらないから、悪夢なんだ。そこにはストーリーもなければ解決もない。この世界に捉えられたまま彷徨い歩くしかないのだ。

長い夢だった。抱き合ったまま黒こげになっている親子や、無限に落下する肉片や、お遊戯室のなかで遊びながら弾け飛んでいく子どもたちや、ビニール袋に包まれたまま水中に沈むサラリーマンや、手足あるいは頭の欠損したまま行進を続ける軍服たち。およそありとあらゆる死がそこには再現されていた。それが女の芸術だった。

なぜ俺はこの死体芸術家の女に魅入られたのだろうと考えた。なぜこの女の作り出した最悪のギャラリーにいなければならないのだろう。いや、なぜ俺は俺の作り出しているはずの夢に苦しまなければならないのか。抑圧された自殺願望なのか。あるいは俺が今まで妄想のなかで殺し続けてきた人間たちの怨念なのか。夢のなかであるにもかかわらず、俺は考えていた。もしくは……現実の俺はすでに死んでいるのかも知れないとも思った。この眠りにつく前に、俺は俺の首についにロープをかけてしまったのか。そんな不安にかられたとき、ああなんだ、俺は観客じゃなかったんだなと悟った。俺もまた、この死体芸術家の作品の一つだったのだ。

女がじっと俺を見ていた。





夢のなかの方向感覚と時間の関係

投稿日:2008年09月10日(水)

これは非常に個人的な感覚の問題かもしれない。

南に向かって移動する夢を多く見ている。それはクルマだったり、徒歩だったり、何らかの飛行物体であったりするのだが目的地はだいたい南の方角にある。なぜ南に向かっているとわかるのか、その明確な証拠があるわけではない。ただ、南に向かっているという自覚があるだけだ。

北に向かう夢を見ないわけではない。北に向かう夢のほとんどは帰宅を目的としている。家に帰るために北に向かっているのだ。南に向かって出発しているのだから、北に帰るのは当然だろう……いや、当然なのかこれ。同じ夢のなかの出来事ならともかく、帰宅するだけの夢がつねに北に向かっているというのはなぜなだろう。

時間のイメージもある。これは言葉にするとなんだかおかしな気分になるが、自分にとって夢のなかでの南の方角は時間的な未来を意味している。一方、北は過去を意味する。あえて時間的なと書いたのは、未来という言葉には空想めいたものが含まれるので、自分のいる現在からつながっている未来と限定したかったからだ。南の国にSFワールドが広がっているという意味ではない。距離と時間が入れ替わった感覚とでもいえばいいのか。たとえば、現実世界の俺はヒキコモリだからずっと部屋の中にいる。時間だけが過ぎ去る。しかし、夢のなかではつねに南に向かって移動し続けているが、時間は経過しない。沈まない太陽。明けない夜。いつまでも続く夕暮れ時。そんな世界を旅している。

これはなんなのだろうか。

別に話を作っているわけではない。子どもの頃から見ている夢を思い返してみると、そういう共通部分というか夢の根底があるように思えるのだ。

これはある種の人間に共通する感覚なのだろうか。たとえば、北半球に住む人間が抱く南北のイメージがそのまま夢に影響を与えている可能性はないだろうか。北は寒い、南は暖かい。南の海、南の島、地上の楽園。南には快適な生活がある。このようなイメージだ。そうだとすれば、ここまでがんばって書いたわりには、ごく普通のことになってしまう。

時間の感覚はなんだろうなあ。時間が過ぎ去ってしまうような夢は記憶にない。移動はしているのに時間は過ぎない。これも普通のことなんだろうか。



ある夏の暑い日、俺は母と一緒に果樹園をつらぬく道を歩いていた。夕方いつも遊びに来る姪のために、絵本を買いにいくのだ。本屋は南の街にある。小さな古びた本屋が、たしか一軒あるはずだ。この果樹園の道をまっすぐに進めばすぐに行ける。まっすぐに歩き続けるだけで、いい。太陽はまだ真上にある。どんなにゆっくり歩いても夕方までには間に合うだろう。夏の強烈な光線が果樹園の木々の下に濃い影を作り出している。ずっと照らされ続けているから影はますます濃くなって、夜の闇よりも暗い黒に近づいている。俺は暗黒に足を踏み外さないよう、母の手をしっかり握る。俺と母は本屋に向かって歩いている。いつまでも、歩いている。たぶん、今も。


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小瀬朧
性別:
男性
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創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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