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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年04月26日(金)

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熱の夜

投稿日:2008年11月20日(木)

風邪のためか熱が酷かった。

熱にうなされると、よくわからないヴィジョンをずっと見なければならないので苦しい。考えようによっては楽しいのかもしれないが、何かにとりつかれたかのように同じヴィジョンを見続けるのだから、どうなんだろう。精神力の問題か。

ヴィジョン。

自分が一つの光源となって、真っ暗な空間で明滅を繰り返している。そのタイミングは耳の奥にかすかに届く時計の針の音と同じだ。時計がカッチカッチと鳴る毎に、自分を中心に白い光の輪がパッと広がる。その輪は、部屋いっぱいぐらいの大きさになると自然に消える。このヴィジョンを見ているときは、これこそが世界の真理だと直観していた。世界のあらゆるものが、この光の輪の内に生まれては消えていく。もちろん、熱が冷めた今では、なぜそれが真理に思えたのかまったくわからない。しかも、言葉にしてしまうとなんだかくだらなすぎて泣けてくる。

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眠らなくても夢を見られる

投稿日:2008年10月24日(金)

最近、できるようになった。

精神の健全さから考えると、かなり末期のような気もするが、心の防衛機能という観点からなら、俺のそれは非常によい働きをしている。つまり、極まった現実逃避の一形態だ。

昼間、居間で座布団を枕にごろりと横になる。目を閉じる。行き場を失った雑多な思念が頭のなかで暴れはじめる。いわゆる雑念ともいわれるが、雑念を雑念たらしめるのはそれを雑念だと規定している自分に他ならないから、俺はそれを雑念だとは思わないことにしている。どうぞ、ご自由にしてくださいとばかりに、次から次へと思い浮かぶものをただ眺め続ける。

集中しようとか瞑想しようとか、そういうことも考えない。いや、考えない、ということも考えない。ただそこに「ある」自分をかんじる。いや、かんじる、ということもかんじる必要はないかもしれない。だって、自分はそこに「ある」のだから。「ある」ということそのものが、自分だから。

すると、いつからなのかわからないが、自分が居間に横たわりながらも、何か違う世界を見ていることに気づく。見ているというか、そこに「いる」という感覚に近い。それはもの凄く長い時間にも思えるが、ほんの一瞬なのかもしれない。

昨日、俺はどこか知らない坂道を、知らないはずなのによく知っている女の子と一緒に駆け下りていた。坂の両側は、竹でつくられた間垣とブロック塀と鬱蒼とした雑木林が混在していた。坂道はどこまでも続いていたから、二人はいつまでも駆け続けることができた。しかし、あまりにも加速しすぎたため、俺はこれが現実ではないとわかっているのに、怖くなって目を開けてしまった。

空想と妄想と夢の境目はよくわからないが、あるいはこれが白昼夢というやつなのだろうか。

悪夢フルセット

投稿日:2008年10月17日(金)

だから昼寝はするものじゃない。

また学校の夢だ。俺は夢のなかで夢と気づく。同じ夢を何回も見ていれば、自分がすでに学校に通う年齢でないことはすぐに思い出す。俺は話しかけてくる、中学・高校がごっちゃになったクラスメイトたちをひたすら無視し、この夢がどうなるか考えていた。

窓の外を見ると、形式のわからないヘリコプターとF-22が編隊を組んでゆっくりと飛んでいる。ありえない光景がいかにも夢だ。しかし、俺は漠然とした不安に駆られた。教室から走り出した。おそらくこれは終末の夢だ。

俺は階段を駆け下りる。今度は階段の夢か。とにかく今は地下に逃げることに専念する。だが、この学校に地下はなかった。思いがけず外に出てしまった俺は、校舎の正面に据え付けられた赤い警告灯がけたたましい音とともに明滅しているのを見る。警告灯の下にはボロを着たみすぼらしい爺さんがいて、これはなんだろうなあ、と俺に聞いてくる。爺さん早く逃げろ、と俺は叫ぶ。

これは最悪の夢だ。

俺は夢のなかで確信した。逃げる場所がない。空を見上げると、銀色に輝く物体がゆっくりと降下していた。よりによってこんな近距離で爆発されたら助かりようがない。爆心地、衝撃波、蒸発、地面に焼きつく人の影、不吉な言葉が次々に思い浮かぶ。いくら夢とはいえ、死にたくはない。せめて校舎の陰に隠れることができれば、即死は免れるかもしれない。生き残りさえすれば、根性で夢を終了させることができる。悪夢なら、目を覚ませばいいだけのことだ。

俺は校舎の陰を目指してはしっ――









普通なら、こういうときは目が覚めると思う。しかし、今回も目は覚めなかった。夢のなかで俺は死んだ。死んだ感覚というのも変なのだが、俺が夢のなかで体験する死は、「白と黒が同時に存在する世界」だ。灰色ではない。まばゆい光と暗黒が解け合っている、そういう世界に俺はなっている。「俺がいる」のでなく、俺がその世界そのものになっている。そういうヴィジョンなのだろうが、そこに自分と世界の区別はない。



夢は終わらない。

俺は死んだのだが、死の世界から夢の世界に引き戻された。夢なのだからなんでもありだろう。あえて理屈をつけるなら、幽霊になっている夢か。

俺は黒こげになった街にいた。生きている者は誰もいないようだ。誰もいないし、俺も死んでいるから、何もすることがない。

何もすることがないから、俺は目を覚ました。

昼寝が終わらない

投稿日:2008年10月08日(水)

時計代わりの携帯電話が目に映っているのに、それをつかもうとする手がどこにも見えない。

思い切って身体を動かすと、起き上がるのだが妙な違和感がある。頭の上のほうで、ずっと掃除機の音が鳴り響いている。じんじんと手足が細かく振動している。

これはまだ夢だ。目を開けろ!

時計代わりの携帯電話が目に映っている。枕にした座布団も左目の視界にある。読みかけの文庫もそこにある。けれども、それらをつかもうとしている手が、どんなに動かしても、目に映らない。顔の前でぶんぶんと手を振っているのに、見えない。

これはまだ夢だ。もう一度、目を開けろ!

同じことを数回繰り返す。同じ文章が続くので、コピーペースト、コピーペースト、コピー……。

※※※

いわゆる体外離脱状態なのだが、俺の場合はただの明晰夢に近い。目に映っている景色は確かに昼寝している部屋のものだが、夢が創り出している虚像なのだ。手を動かしているつもりだが、現実の手は動いていない。手を動かしている感覚も、夢が創り出したものだ。じっさい、本当に目が覚めてみると、あたりはすでに真っ暗で、さっきまで見えていた光景と違う。手は身体の下敷きになっていたので動きようがない。

昼寝をするとかなりの確率でこの状態になるので、俺は怖い。怖いのだ。

体外離脱だの明晰夢だのというと、ある種の人にとってはあこがれの体験かもしれないが、俺は怖くてたまらない。もう少し身体を動かせば、完全に肉体からはなれることができそうな感覚になるのだけれども、同時に、心の内奥にどうしようもない恐怖感が生まれる。今、こうやって覚醒しているときは、どうせ夢なんだから思い切ってその先に行ってしまえばいいのにと思う。しかし、いざその状態になると、まったくどうしようもない恐怖にとらわれてしまうのだ。あえて喩えるなら、現実世界で、屋上から地面に向かってちょっと飛んでみようとしている感覚だろう。空想ではなく、現実でだ。現実で屋上から本当にダイブできる人間は、いうまでもないだろう。

それに、これはちょっとオカルトめいた話になるので嫌なのだが、この昼寝中の明晰夢にあまり長い時間はまっていると、いろいろな「何か」が俺の寝ているところにやってくる。

とはいいつつ、俺はオカルト好きだからこそ、逆説的に現実主義者になっているので、自分の体験はすべて脳内での出来事だと認識している。けれども、俺とは逆に、現実主義にどっぷりはまっている人は、こういう体験を「自分が」してしまうと、あれよあれよとオカルトの世界に来てしまうのかもしれないな、と最近考えている。





世界の影はいつも背中に

投稿日:2008年10月03日(金)

人間の目は顔の正面に二つある。だから、一度に前しか見ることができない。前しか見えないということは、人間はある瞬間においては世界の半分しか認識できないのと同じだ。見ることのできない背中側の世界は、今この瞬間も、ぼんやりとした気配となって俺の後ろに感じられる。

前にも書いたが、もし人間の目が前後についていたらどうなったのだろう。世界はどう見えるのだろう。前と後ろが同時に見えると、世界はどう変わるのか。ちょっと想像できない。その想像できないことを、あえて想像してみるのが、瞑想の一つの方法だと思う。もちろん瞑想であるからには<想像>ではなく本当に<見る>のだけれども。

普段、右の世界と左の世界が同時に見えていることに、何の疑問も抱かない。つながった一つの世界として見えている。ためしに、右目と左目の間、鼻にそって下敷きでも雑誌でもを立ててみるとよくわかる。右目は右の世界、左目は左の世界しか見えてない。だけれども、普通に何の違和感もなく、一つの世界を見ることができるのだ。

だから、もし目が前後にあったとしても、きっと一つの世界として見ることができる。そのとき、世界はいったいどのように見えるのか。いや、世界のなかで自分はどういう存在となるのか、知りたい。真っ暗な、本当の闇である、かすかな気配でしか感じ取れない背中側の世界はなくなるわけだ。

厳密に視角を考慮するなら、目は前後だけではなく左右にもあればいい。4つの目だ。4つの目で世界を見れば、自分は世界の中心の点となる、と思う。

もっと厳密に考えるなら、まだ世界のすべてを見るには目が足りない。頭のてっぺんと足下だ。4つの目ではドーナツ型の世界を見ていることになる。そこにもう二つ、上と下を見る目を足す。そうすれば世界のすべてを同時に見ることができる。もっとも、足下は地面だから、下を見る目をどこにつけるのか問題になるけど。股間? 足の裏?

全方向を同時に見ることができたとき、自分は球体の中心部の点になる、と思う。それがいったいどういう状態なのか、ちょっと考えただけではわからない。わからないけれども、文字通り、世界観はがらりと変わるはずだ。

だから、瞑想してみるのだ。

これを昨日の晩、耽っていた。布団の上にぼんやり座り、球体の中心点となるべく、瞑想に耽っていた。新しい視覚を手に入れるために、瞑想していた。肉体の目はたしかに二つしかない。だからといって、心のなかの世界の目まで、現実の肉体に従う必要はないのではないか。ありとあらゆるアプローチをしてみた。

というようなことをやっていたら、昨日の晩は、もの凄くよく眠れた。



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