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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年04月28日(日)

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花村萬月『浄夜』

投稿日:2008年04月23日(水)

先に書いておくけど、俺は花村萬月氏のファンではない。傾倒なんてもってのほかだ。前も書いたけど、本当に偶然、まったく意味もなく、俺の心の奥深くにこびりついているだけだ。カビのようなものだ。カビは放っておくと増殖する。

花村萬月『浄夜』を読み終えた。これは面白い。あまりにも面白いので、普段の読書のときにするメモや辞書引きなんかやめて夢中で読んだ。貪り読むというやつか。面白い。面白い。とにかく面白かった。面白いしか連呼できないのは、じっさいはゆとりある俺がたんに言葉を知らないだけなんだけど、ここはひとつ知的興奮を表していると深読みしてもらえるとうれしい。まれにいる、周りの人から勝手に深読みしてもらえる人にあこがれる。

花村萬月氏は人のコンプレックスをくすぐるのが巧い。性的な意味に近い。脂ぎっていてねっとりとしている。舐め回されている気分だ。まったく、いやらしい。同性に尻の穴をまさぐられているようでもある。たぶん、俺のような階級の人間の尻が好みなんだろう。そして、これが俺の自意識過剰であることも、小説内で見抜いているのだから、作家という人間は恐ろしい。だから、迂闊にファンになってはいけないのだ。傾倒してもいけない。そんなことをしたら、おしまいだ。あくまでも距離をとって、おっかなびっくり覗き見するほうがいい。それでも、覗き見されているフリをしながら、こちらを観察しているだろうこともわかってはいるけど。

一応追記というか。
作品の趣旨から離れてしまうけど、この『浄夜』には小説を書くためのヒントというか本質のようなものが見え隠れしていると思った。それもまた巧妙にまかれた餌だろうけど、俺は食いつかずにはいられなかった。
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花村萬月『ゲルマニウムの夜』

投稿日:2008年04月20日(日)

俺の書くという行為そのものに影響を与えた作家が花村萬月氏だ。内容にではない。書くという行為そのものにだ。影響というと聞こえがいいが、じっさいは呪縛だと思う。それもかなり無意識の領域に食いこんでいる催眠術的な呪縛だ。尊敬とか傾倒とかそういう作家に対する恋愛感情のような気色悪いものではない。だから、花村萬月氏の小説作品を読むのはこの『ゲルマニウムの夜』が初めてなのだ。

いまとなっては理由はまったく不明なのだが、花村萬月氏が俺の学校で講演をした。芥川賞を受賞する前である。誰も花村萬月氏の名前を知らなかった。担任教師も知らない。当然、俺も知るわけがない。講演内容は日本全国をバイクで駆け巡り、雪の中でオナニーをしたというような印象しか残っていない。ひたすら下品な話が続いたと思う。もし当時に戻れるなら、あの講演会を司会がどういうように終わらせたのかその手腕を観察したい。それはともかく、間違いなくこのときに俺は感染していたのだ。そして長い潜伏期間に入る。

テレビや新聞、雑誌、書店が『ゲルマニウムの夜』と「花村萬月」の単語を連発するようになったとき、あの講演会に関係した人間すべてが驚いたのはいうまでもない。愕然だ。本当なら忘れたことさえ忘れるようなごく平凡な学校生活の出来事、無名の作家による講演会の記憶が、古傷のように消えなくなってしまったのだ。日常生活に支障はきたさないが、それを見るたびに当時を思い出すという、まさに古傷だ。古傷はいつか美談にされるから、怖い。そして、俺は発病する。人生の選択肢というか逃げ道に小説を書くという行為が加わってしまったのだ。

もし、あの講演会が花村萬月氏ではなく、たとえば陶芸家だったり版画家だったりあるいは若き起業家だったりしたならと、ときどき思う。

都筑道夫『25階の窓』

投稿日:2008年04月10日(木)

読み終えた。これはいい。

『怪談の学校』で必読とされていた都筑道夫氏の『ミステリイ指南』を読み、氏の怪奇小説論に感化され、初めて購入した短編集が『25階の窓』だ。タイトルのチョイスはたまたまブックオフにこれしかなかったからにすぎない。もっと他の作品も読みたいのでまた探しに行く。

『25階の窓』とは25の短編が収められているという意味だった。タイトルの下には「都筑道夫モダンホラー・コレクション」と書かれている。モダンホラーという言葉は今の感覚だとなんだか古臭く、気恥ずかしさもある。作品の内容は時代背景のせいでどこか懐かしい空気を感じるけどなかなか面白い。さすがに、ホラー・怪奇小説を読んで夜も眠れなくなるという年齢ではないし、小説を書くための読書として物語の構成やら表現方法やらに目を光らせているから、恐怖を味わうという本来の意味での楽しみ方はできていないかもしれない。それでも、読後に妙な不安感が残ったり、なんだか釈然としない気持ちがあとをひいたりしているのだから、都筑道夫氏の筆力には素直に驚ける。同時に、今まで読まなかったのを非常に悔やむ。

物語の中ですべてが完結するのではなく、読み終えた後、読者が現実世界に帰ってきてからも何かが心にひっかかっていたり、漠然とした不安がどこか付きまとっていたりする、そういう感覚が残るものが怪奇小説、怪談としては優秀ではないかと俺は勝手に考えている(『怪談の学校』か『ミステリイ指南』の受け売りかもしれんけど)。しかし、読者によっては「え、けっきょく何なの」「オチはないの」「説明不足じゃないの」という感想を抱くかもしれない。かくいう俺も何がおこったのかよくわからず、「阿蘭陀すてれん」と「かくれんぼ」を数回読み直してしまった。実に不思議な作品だった。こういう小説を自分でも書いてみたいものだ。

小松左京『果しなき流れの果に』

投稿日:2008年04月02日(水)

こんなところで虚栄を張っても、何も得られないので正直に書くと、実は今日、しかもたった今読み終えた。数年前に購入したまま本棚に眠っていた。もっと早く読んでおくべきだった。猛省。

光瀬龍『百億の昼と千億の夜』はすでに読んでいたのに、『果しなき流れの果に』は積んだまま。これがゆとりある俺クオリティ。早川書房の『SF入門』(2001年)では日本SF作家クラブがおすすめする小説の国内第1位が『果しなき流れの果に』である。ちなみに2位が『百億の昼と千億の夜』。要するに、四の五の言わずに読んでおけという小説だったのだ。

これが1965年に書かれたというのだから恐ろしい。驚くどころの話じゃない。自分が生まれるはるか昔にこんな壮大な物語が存在していた、それをほんの数時間前まで知らなかった、その二つの事実が恐ろしいのだ。さらに、良作を読み終えたあとのあのため息しか出てこない「満たされた虚脱感」はいまだかつてないほどである。ろくな読書習慣がなかったのだから、当然なんだけど。

ここで「書くための読書」というこのBlogでの本来の目的に戻ってみると、本書を読むことでSFというジャンルのハードルの高さを痛感したとしかいえない。およそ自分の中にあったSFのタネみたいなものは、まったくもって存在していないのと同義なぐらいちっぽけで惨めだったのだ。うーん。

とりあえず、頭をクールダウンさせないと。
ちょっと他の本に手をつけられない。

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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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