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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2019年08月23日(金)

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描写がよくわからない

投稿日:2009年02月11日(水)

作文も小説も描写が大切。

これは最近覚えたことだ。作文の書き方の本にも、小説作法の本にも、プロ作家の経験談にも、必ず「描写が大切」と書かれている。しかし、肝心の「描写」とはいったいなんなのかよくわからない。

言葉の意味をはっきりさせてみる。広辞苑ではこう解説されている。

びょうしゃ【描写】
書き写すこと。特に文芸・絵画・音楽など芸術的制作において、物の形体や事柄・感情などを客観的に表現すること。「心理―」

怖ろしく難解なことをさらりと説明している。

この解説のなかでもっとも大切なのは「客観的に表現する」の部分だ。いじわるな読み方をすれば、主観的に表現されたものは描写ではないのか、と思ってしまう。

さあて、難しい。どうにもこうにも難しい。

まず、客観とは何か、主観とは何か。この二つの語が理解できないと、「客観的に表現する」の意味もわからない。困ったことに、なまじ小学生ぐらいで「客観的」なんて言葉と頻繁に接するものだから、わかったつもりになってしまっている。

客観的を広辞苑でひいてみる。
きゃっかんてき【客観的】
特定の個人的主観の考えや評価から独立して、普遍性をもっていること。「―な態度」「―に述べる」

顔がひきつりそうになる。「普遍性」とは何か、正確に理解できている自信はない。これも広辞苑でひく。
ふへんせい【普遍性】
(1)すべてのものに通ずる性質。
(2)すべての場合にあてはまる可能性。一般性

このあたりで妥協しないとキリがないか。

とにかく「客観的に表現する」というのは途轍もなく難しいのだ。

作文にしても小説にしても、それを書いているのは自分自身である。特定の個人というやつだ。その自分自身の、ある対象を見たときの考え方や感じ方が「主観」だ。

だから、何かについて書くとき、自分の考えたことや感じたことをそのまま言葉にして並べたのでは「描写」にはならないということになる。

具体的に例をあげるなら、遠足の作文で「とても楽しかった」とか「うれしかった」とだけ書くのは、描写ではない。これは言葉の置き換えの問題ではないから、いくら語彙を増やして、「とても愉快だった」とか「このうえない喜びが沸き上がってきた」とか書き換えてもダメなのである。

これが、小説となるともっと難しい。

なんせ、小説は自分の頭のなかで創り出す虚構なのだ。こってこての主観の塊だ。描写するためには、その主観の塊を容赦なく解体して、誰にでもわかるように再構築しなければならない。それが、「描写」というやつではないか、と最近考えている。

例を書いてみた。
錦鯉太郎は日本史が苦手だ。彼はテストの点が悪くていらいらしていた。

これは、描写じゃないと思う。説明ってやつかな。

別の書き方をしてみる。
錦鯉太郎は学生鞄のなかから、一枚の紙切れを取り出した。日本史の答案用紙だ。右上には29という数字が赤ペンで殴り書きされている。しばらく眺めてから、彼は答案用紙をくしゃくしゃに丸めた。

これは描写だろうか。冗長な説明だろうか。よくわからない。わからないけれども、描写しろと言われたら、上のように書くのが今の自分の限界だ。


ぜんぜん関係ないけど、高校時代、あまりにも日本史が苦手だったので、あるとき鉛筆を転がして回答を選んでみたら、普段よりも点数が高かったという思い出がある。「運>知識」かよ。


話がそれた。というか、そらした。

とりあえず、描写についてはまだまだ勉強しないとならないな。ただ、今回はあくまでも文章として考えたけど、描写は「絵」に喩えられることもよくある(言葉によるスケッチ等)から、次はそっちを考えてみる。




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主観と矛盾

描写という概念が、客観と結びつくことを、今の今まで知りませんでした。しかし、これを虚とする考え方があります。
 この辺のことを得意とするのが、現象学です。
 現象学の言葉で、すべてを主観に還元すると言いますが、どのようなモノの言い方も、主観から外れることは不可能だと言います。それは科学的知見を以ても、そうだと説きます。何故ならば、科学を扱うのが人間だからです。
 
 このような言い方の虚実は、わかりませんが、一定の事実を示唆しているような気がします。その例として、大塚英志を挙げることが出来ます。彼はその筆において、日本文学を、いや日本語そのものを客観的でないとして廃しようとします。
 その先鋭的なものの味方に、最初は惹かれたものの、すぐにおかしいと気づきました。
 主観を廃そうとすれば、するほど没個性へと進みます。すると、各個人が描写する必要がなくなってしまいます。終いには、PCにでも、やらせておけばいいということになりかねません。
 
 辞書の表現が正しいとすると、ここに奇妙な矛盾が生ずることになります。

>>uenoさん

uenoさんこんにちは。

今回は「描写」という概念を意地悪く俎上に載せてみました。

広辞苑の編者が「描写」と「客観」を結びつけた意図はわかりかねますが、言葉通りに受け取るなら、上で書いたとおり、かなり難解な話になります。

もちろん、私たちが日常何気なくつかう「客観的」という言葉に、それほど深い意味がないのはわかっております。ほとんどの場合、ただの飾りみたいに使われていますよね。

私は、今まで小説とはまさに主観の産物だと考えていました。しかし、小説の肝となる「描写」に、客観の概念が絡んでいることに驚きました。

それでも、厳密に考えれば、人間が人間である限り、物事を客観で捉えることは不可能なわけです。

だいたい、人間の感情を客観的に表現するなんて、いったいどうやるのでしょうね。多くの指南本は、その感情のときにとった行動や見えた情景を書くことがすなわち「描写」である、というような説明をしますが、でもそれって、客観的な表現ではなく、間接的な表現ではないかと思ってしまいます。ですから、ときどき反発したくなり、単純に「清美はうれしかった」と書きたくなります。(これはちょっと小説の本質から離れたわがままなんですが)

私はどちらかというと東洋的な思想に傾いていますので、欧米的な「主観より客観が大切」みたいな風潮は好きではありません。文芸に当てはめるなら、物語を類型化したりストーリーを積み木のように積み上げていくというあの考え方が好きではありません。
uenoさんが危惧するように、そんなことをやっていれば、最終的には人間でなくても小説は書けるようになってしまいます。むしろ、有限のパターンを機械的に組み合わせていく作業なんて、人間よりコンピュータのほうが得意なはずです。

この件については現代進行形で考え中です。

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