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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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難しいことを簡単にいう

投稿日:2008年09月25日(木)

難しいことを難しい言葉で説明する。
難しいことを簡単な言葉で説明する。
簡単なことを難しい言葉で説明する。
簡単なことを簡単な言葉で説明する。

一般的には、難しいことを簡単な言葉で説明できる人ほど優秀であると思われる。俺もそう思う。そういう人には天賦の才を感じる。師と崇めたくなる。どこまでもついて行きたくなる。俺もそういう人になりたい。

だから、なるべく普段から簡単な言葉を使うようにしているのだけれども、難しいことを簡単な言葉で説明するというのは途轍もなく難しいことなのだ。まず、その難しいことを自分が完全に理解している必要がある。理解とはなんぞやという根本的な疑問も沸いてくるかも知れないがとりあえずは置いておく。次に、その難しいことを別の言葉で置き換えるという作業がある。そのためには、説明する相手の言語レベルを見極めるセンスが必要となる。よく言われるのは、小学生にもわかるように説明しよう、だけれども「小学生にもわかる言語レベル」がわかるのは実は凄い人間だと思う。なぜなら、言語レベルとは書いているけれども、それが意味するのは語彙の量ではなく、言語によってもたらされる思考能力の程度だ。つまり、相手の知っている言葉に置き換えるだけでは不十分で、相手の考え方とものの見方までをも考慮しなければならないのだ。

ときどき難しい本に出会う。著者はなるべく簡単な言葉で説明しようとしているのだが、どうにも俺にはわからないときがある。語彙の問題ではない。意味のわからない単語をすべて辞書で調べたとしても、あるいは最初から簡単な単語だけで書かれていたとしても、全体として意味がわからないということがよくあるのだ。これは俺の思考能力の限界を超えているということだ。どんなに言葉を簡単にしても、処理はできないだろう。その考え方を理解できるだけの考え方が俺にはまだないということなのだ。

ちなみに俺がまだ会社員時代に、中学生の職場体験の担当になったことがあった。中学生が夏休みを利用していろいろな仕事を体験してみるというアレだ。俺が若いときにはなかった。その職場体験にくる中学生の子のために、俺は自分の業界の仕組みや商売の基本のようなものをできる限り簡単な言葉で書いた資料を作った。しかし、反応はまったくだった。なんだかわかりませんですううう、という雰囲気がひしひしと伝わってきた。そしてやっと、ああだから職場「体験」なんだな、とわかった。言葉を使った理屈で理解するのが難しいから、体験してもらうんだな、と。

だからこそ、難しいことを簡単な言葉で説明できる人間は凄いと思うのだ。体験や経験を通さずに、言葉の力だけで未知のものを理解してもらう。というより、言葉の力でもって、体験や経験と同じものを得てもらう。これは並大抵のことではないだろう。

で、小説の話になるのだけれども、その並大抵のことではないことをあえてやろうとしているのが小説家ではなかろうか。とんでもなく難しいことを、誰にでもわかる言葉、小説にして読者に伝えている。それが見事な小説は、面白いのだ。もっとも、小説のなかには、簡単なことを難しい言葉で説明しているだけのものもあるだろうけどね。間違った文学観で書かれた俺らの小説とか。


※※※
蛇足。間違った文学観↓

とにかく難しい言葉に置き換えて並べりゃいいさあ。
情景を事細かく描写すればいいさあ。
主人公を悩ませていればいいのさあ。

か?
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無題

「言葉の力で、同じ体験や経験を得てもらう」とありますけれど、これは本当に可能なのかと思います。
たとえば、司馬遼太郎がいます。彼は戦記や歴史物が得意ですけれど、はたして、それらを体験として理解していたのでしょうか。彼の年齢からして、戦場は経験していたかもしれませんけど、戦国時代の戦闘を書物だけを通して、体験できるものかと思います。しかし、多くの読者は彼の作品を通して、リアルな感動を得るわけです。ここに、複雑な疑問が生じます。どうして、彼は体験したわけでもないことを、読者に再体験させられるのだろう、ということです。
 そこには、なにか形而上的な何か介在しているだろうか、とさえ思います。簡単にここには、逃げたくないですが。
 
 

>>uenoさん

uenoさんこんにちは!
毎回同じ挨拶ですみません。

正直な本音を書きますと、「言葉の力で、同じ体験や経験を得てもらう」のが可能かどうかは「まあ無理だろう」と思っています。私達が見事な小説を読んで、何かを体験したのと同じものを得られたと感じるのは、一つは錯覚だと思います。得てはいないが、読んだ本人は得たつもりになっている。悪く言えば言語によるトリックです。あるいは、シナリオ論の範疇に属する構成のテクニックによるものかもしれません。
もう一つは、作家が物事の本質を見極めていて、その本質を象徴や暗喩を駆使して読者に伝えている場合です。uenoさんが例に挙げられた司馬遼太郎氏はこちらに属しているのではないかと私は考えます。ただ、こちらの場合は限りなく哲学の世界にも近づきますよね。物事の本質とはなんぞや、なんて言い出したらそれこそ泥沼ですから。
しかし、実際に私達は、ある一定の秩序にしたがった文字の羅列を読んだだけで、体験しているわけでもないのに興奮したり、恐れたり、怒ったり、笑ったり、涙を流したりします。この根本の作用の仕組み……とか言い出しますと、これも泥沼になりますね。
こんなことを考えると、小説家というものはなんと勇敢なんだろうと思いますよ。

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小瀬朧
性別:
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創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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