投稿日:2024年11月22日(金)
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投稿日:2008年09月26日(金)
俺は今でもこだわっているのだがどうにもうまく説明できない。ただの言葉遊びと思われるかも知れない。だけど、何かの本にああこれだと思う記述があったはずなのだ。それを探していた。
で、やっと発掘した本のなかからみつけた。昔読んだ本だ。売らずに残っていた。小説じゃなくて詩の本だけれども、黒田三郎氏の『詩の作り方』にこう書かれている。以下引用。
T・E・ヒュームは比喩的表現について述べ、「われわれの多くは、ものをそのあるがままに見ることはなく、ただ、言語として具象化されている、ありあわせの類型を見るだけである」と言っています。ことばというものは、表現するときだけでなく、存在を見るときにさえ、人間とものとの間に立ちはだかるのです。
ヒュームは、この二重の困難が詩人にあることを示しています。見る場合にも表現する場合にも、類型化し、習慣化したことばが障害となるということです。比喩的表現は、経験を直接に、リアルに、全部をそっくりそのまま伝えようとする役割をもっています。しかしそれ以前に、詩人は、ブーアスチンの言うマス・メディアの生んだ疑似イベント(できごと)のイメージや、ヒュームの言う習慣化し、類型化したことばの障壁から、みずからを解放しなければならないでしょう。(黒田三郎『詩の作り方』)
引用終わり。
先日書いた雑記の、ナトリウムランプという言葉を知ってしまったときの困惑もこれに近い。名前を知らなかったときは、夜の国道を照らすオレンジ色の灯りに様々なものを感じ取っていたが、ナトリウムランプという言葉を知ってからは、まず「ナトリウムランプ」という言葉が思い浮かぶようになってしまう。記憶の片隅にある幼い日に見たトンネルのオレンジ色の灯りも、長い果樹園の農道を抜けたときに目にする国道の灯りも、大雪の真夜中に見た幻想的なオレンジの世界も、油断するとみな一つの言葉にまとめられてしまう。それはナトリウムランプに限ったことではなく、自分の身の回りのもののほとんどが、同じように言葉による束縛を受けているのだ。何かをみたときに、まずそれの名前が頭に浮かぶのだが、そこで普通はストップしてしまう。そこから先に進めない。モノの名前だけではなく、名前の知っているこの世のありとあらゆる現象についてもそうだろう。
とはいいつつも、これはあくまでも詩を書くための理屈であって小説に適用されるべきものとは限らない。だいたい、俺はこんなことにこだわっているからいつまでたってもまともな小説が書けないのだ。
詩人は世界の純粋な観察者であろうとするけれども、小説家は虚構によって世界を造り替えようとする。前者の「世界」と後者の「世界」は指し示すものがかなり違うのだが、書いている俺自身でもたぶんわかっていない。ただ、詩を書いたことのある人ならなんとなくわかるのではないだろうか。その「なんとなく」の壁がぶち破れなくて苦悩するのだとも思う。
どちらにしろ、世界と自分とのあいだに常に言葉が存在するのは事実だ。言葉はただの道具だ、なんてとてもいえないと思うが、どうだろう。
※※※
ごめん、どうしても最後かっこつけてしまう。深い意味はないよ。基本的にこのBlogは自問自答、すべて自分に向けている言葉だと思ってください。
自分がどうして、詩から小説へと移ったのかと言うと、周りの人間が理解してくれないからです。詩という世界を共有できる人間に、なかなか出会うことはできません。ある詩的な表現に関して、99%の人は首をひねるのです。その1%の人間に出会えることは極上の体験ですが、これを待っていては老人になってしまいそうです。
さて、多くの人に読んで理解してもらうためには、管理人さんがかつて書かれていた通り、「わかりやすく」表現することが肝要です。すると、通り一辺の表現に逃げるしかないのです。そのような共通了解があればこそ、理解しやすいからです。ますます、個性的な表現を求める詩から遠ざかってしまいます。
ヒュームが言っているのは、「言葉の限界」ということでしょうか。これは実感です。所詮、人間は神ではないのだから、真実に近づけても、真実そのものを実感することはできません。
ああ、管理人さんの言われる通り、泥沼になってしまいましたね。
本当に、言葉だとは単なる道具なのでしょうか?そうではないのでしょうか?
uenoさんこんにちは!
本当に泥沼になってしまうんですよね。自分のなかでも、この言語に関する一連の思考はなかなか着地点が見つかりません。
私も以前、詩のサイトを運営していて何百という詩を公開していたのですがまるで理解は得られませんでした。(ただ一人か二人だけ熱烈なファンの方がいらしたのが今となっては不思議なのですが)
これも現実というか本音を書けば、他人に共感を求めるならば、言葉はやはり内容伝達の道具になると思います。しかし、その道具に合わせて自分の思考や感覚までもが制約を受けるのは、やはり納得がいきませんよね。とはいっても、理想論すぎるし、本当に泥沼です。
で、uenoさんが以前におっしゃった「言語は母親」という隠喩が非常に深い意味を持ってくるわけなんです。「障害」という暗喩に引きずられていた言語のマイナスのイメージが一気にプラスへと転じた。
今はまだ思考中ですが、何かつかめそうなんですよ。
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