忍者ブログ

ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

[PR]

投稿日:2024年11月22日(金)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

終わらない夢

投稿日:2008年09月16日(火)

子どもの頃は当たり前のようにできたのに、気づくとまったくできなくなっていた。

怖い夢や嫌な夢を見ているとき、これは夢なんだから目を覚ませばいいんだ、という単純きわまりない理屈で強引に目を開けて現実世界に戻ってくることが昔はできた。小学校に入る前までぐらいだ。今考えてみると、信じられないような高等テクニック(?)を実践できていたのだ。まず夢のなかで夢と気づくことが難しい。夢だと気づいても、そこから現実世界の肉体にアクセスしてまぶたをこじ開けるのも難しい。もちろん、単に眠りが浅すぎただけかもしれないけれども。

保育園児だった俺でもそのテクニックは凄いとわかっていたらしく、よく周りの子に自慢していた覚えがある。俺は夢から無理矢理覚めることができるんだぜ、怖い夢でも平気だぜ。とはいっても、だからなんだ、という反応しか返ってこなかったが。

あるとき見た夢では、俺は保育園の庭でみんなと一緒に円になってぐるぐる廻っていた。お遊戯のようだが自分たちの輪の周りを弓を持った兵士がぐるりと囲んでいた。そして輪が一歩動くたびに一人ずつ射貫いていった。それが死を意味することは五歳の俺にもわかった。ただ殺されるためだけに一歩一歩進んでいくという理不尽な状況に恐怖以上の怒りを覚えた俺はこの世界の放棄を決意した。俺の前の子が射貫かれ、いよいよ自分の番が迫ったとき、俺は渾身の力をふりしぼりまぶたをこじ開け夢から覚めることに成功した。目が覚めてから少し後悔した。もう少し早く夢を終わらせていれば、俺の前に死んでいった子たちも助かっていただろうにと。

こんな芸当は小学校にあがるぐらいになるともうできなくなり、奇妙な能力を持っていたという記憶だけが残された。もう一度試してみたいと思っても、夢のなかで夢と気づくことがすでに難しくなっていた。また、夢そのものが自分にとっては楽しい世界だったので、わざわざ目を覚ますこともないと考えるようになっていた。記憶はだんだん薄れていき、忘れたことも忘れるはずだった。

ある日おばあさんが死んだ。

大好きなおばあさんが、死んでしまった。昨日生きていた人間が、今、死んでいる。死んでいるということはどういうことか。身体は俺の目の前にあるのに、もう二度と目を開けることはないということだ。それは、永遠に、だ。永遠とはなんだ。永遠とは、ずっとだ。ずっと、この先ずっと、ずっと、絶対に。絶対とはなんだ。絶対とは、絶対だ。本当にこれは絶対なのか。絶対だ。本当に、本当か。本当だ。もう二度と絶対、永遠に、目を開けることはない。つまり、これが、死なのか。

理解できない状況に陥ると、人は驚くほど陳腐になる。それは俺も同じだった。泣きながら布団に潜った俺はこうつぶやいた。

「これは夢だ」

そう、夢だ。こんなことが現実にあるわけがない。現実にあるわけがないのだがら、夢だ。夢ならば終わらせればいい。記憶の底から、昔できたあの技、保育園の頃には当たり前のようにできたあの能力のことを引きずりだした。あれは今こそやるべきなのだ。目を、現実世界の肉体のまぶたをこじ開けるだけでいい。そうすればこの夢は終わる。夢から覚めれば、おばあさんは生きている。そして俺は思うんだ。とても嫌な夢を見ていたなと。すべての意識を集中し、俺はまぶたを開けるための神経回路を探した。今自分が感じている肉体は幻だ。このまぶたは本当のまぶたではない。感覚を超越し、意識を現実世界の肉体に戻すのだ。昔は簡単に、できたのだ――。

一晩、がんばった。火葬場へ向かう早朝のバスの中でも、がんばっていた。火葬場の待合室でもがんばっていた。白い壺に、燃えかすみたいな白い残骸を、長い箸を使って入れているときも。帰りのバスの中。読経。正座でしびれる足。茶碗で食べるうどん。線香の匂い。誰もいなくなったおばあさんの部屋。

なぜ俺の本当のまぶたを開かなかったのだろう。なぜ、昔はできたのに今はできなかったのだろう。陳腐に始まったものは陳腐に終わる。悲しいけれども、それが普通の人間なんだと思う。陳腐なんだけれども、俺は眠りにつくためにつぶやいた。

「これが現実なんだ」












PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

無題

 実際、生きているということは一つの夢を見ているものだと思います。その夢が醒めるときは、死ぬ時なのかもしれません。「夢というものは見ているときは、リアルなのに、醒めてみると色褪せてしまう」とは、あるアニメの中での台詞ですが、どちらが現実なのかわからなくなる時があります。あるいは、昔の中国の格言で、次ぎのような言い方があります。「男が蝶になる夢を見ていた。はたして、男が蝶になる夢を見ていたのか、蝶が男になる夢を見ているのか」
p.s 貴方のブログをリンクさせていただきました。

>>uenoさん

こんにちは!
リンクしていただきましてありがとうございます。
uenoさんのサイトとコメントはよい刺激となっています。

胡蝶の夢や一炊の夢といった話はたいへん好きです。杜子春もそうかもしれません。映画『マトリクス』シリーズもそうですね。
哲学だと水槽に浮かぶ脳なんて話もどこかにあるらしいようです。
夢と現実の区別は、自分が現実側にいるときにできるものであって、夢を見ているまさにそのときに、自分が夢の中にいると気づくことは大変難しい。
今だってそうです。私はこれを打ち込みながら、もしかしてこれも夢だったりするのかな、なんて思ってみたりしています。

トラックバック

twitter

facebook

レコメンド

人気記事

ブログランキング

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ

★ブログランキングに参加しています。

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

HN:
小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


バーコード

ブログ内検索

あわせて

あわせて読みたいブログパーツ

アクセス解析

忍者アナライズ

お知らせ