投稿日:2024年11月23日(土)
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投稿日:2008年12月02日(火)
面白さってのは、読者として楽しむ分には、理屈ではない。当たり前だけど、面白いというのは突発的に沸き上がる感情だ。頭のなかで論理的に考えた結果の感情ではない。むしろ、あとから「なぜ面白いと思ったのだろう」と理屈を考えたりする。 物語のおもしろさに、意外性というのは、不可欠だと思いますけれど、別の要素もあると思います。それは、整った美しさです。
最初は、単なる伏線にすぎなかったことが、物語が進むにつれて、ひとつの事実に収束していきます。言い換えれば『予定調和』とも言いますけれど、優れた物語では、美しい図形を描きます。一つ一つのイベントは単体では、単なるイベントに過ぎなかったことが、全体性の元では、複合的あるいは、巨視的な意味を持ちます。そこに物語のもうひとつのおもしろさがあると思います。
作品をつくるに当たってこのあたりが疑問なのです。作家さんたちは、計算して、それぞれのイベントを意味づけているのか、あるいは無意識のうちに意味づけられているのかという問題です。
もしかして、『予定調和』なるもののも、ひとつの意外性なのかもしれません。
物語が先なのか、世界が先なのかという問題は、ものすごい深い疑問だと思います。これから考えを深めようと思っています。
uenoさんこんにちは!
たしかに「美しさ」が重要ですよね。今までに「面白い」と思ったものは同時に「美しさ」があります。「意外性」だけでは必ずしも面白いとは限りません。(大きな声では言えないのですが、自分がショートショート的な物語があまり好きではないのは、意外性だけが重視されているからかもしれません)
「予定調和」は「物語」と密接な関係にある概念なんでしょうね。言われてみれば、「物語」とは「予定調和」そのものであるとも言えるのかもしれません。全く独立していると思われた要素(世界)に調和が生じる。当然、物語の世界における「神」は「作者」ですから「予定調和」はしかるべき概念なんでしょう。しかし、つきつめてしまえば、「作者」さえも、哲学的な意味での「神」による「予定調和」の一要素となるのですから、「創作」という行為がいかに神秘性に富んだものなのか考えさせられます。
まったく、物語と世界のどちらが先なのかというのは深い問題だと思います。私でさえ、何かを書くときは先にぼんやりとした原型といえるような世界があって、書いているうちにそのぼんやりとした世界がだんだんとはっきりしてくる。世界がはっきりしてくれば、物語もどんどん進む。じゃあ、いったいその原型の世界を自分のなかに「創作」したのは何なのでしょう。
『神』ではないですか?
管理人さんは、このような話題になると、二の足を踏まれますね。
この点を管理人さんと論争したら、おもしろそうです。
uenoさんこんにちは!
『神』という言葉および概念、その他宗教的、非宗教的なあらゆる「カミ」に、私が抵抗を感じるのは実は確固たる理由があります。まだ書いたことはないかもしれないのですが、若いときに、なんていうか、その、マイナーなカルト宗教に入ってしまったことがあり、それをきっかけに確実に、人生が変わりました。というか、現実問題として、終わりました。マインド・コントロールとは恐ろしいもので、今でも後遺症が残っているというか、いろいろフラッシュバックします。悪夢の正体。私がたまにほのめかす精神の病というのも、実はそっち系の話だったりします。
しかし、10年以上たった今では、過去の取り返しのつかない過ちでさえ、逆説的に自分の生きる力となっているのも事実です。あらゆる宗教への拒絶があるからこそ、「信仰とはなんぞや」という問いに対して、安易な回答を出さずにすんでいます。
私が花村萬月先生に、異常なまでに入れ込み、恋愛感情にも近い憧れを抱いているのも、自らの宗教体験が根本にあるからに違いありません。
ただ、それらをすべてひっくるめて、自覚した上でいろいろな思惟に耽っていても、最終的にはどうしても「カミ」という音に到達せざるを得なくなります。あらゆる現象の背後にある本質、根本原理を考えるということは、人智を超越した「何か」に触れることになります。あるいは、私の立つ地平の向こう側を覗く行為ともいえます。
思わず饒舌になってしまったのは、結局は、聞いてもらいたかったからでしょうね。私にはまだ人間的な部分が沢山残っているようです。
知らぬこととは、いえ、大変失礼いたしました。
しかし、私もいい加減なつもりで、宗教をあつかうつもりはありません。
『クモの糸』の中で、カワルラニに、「・・・・・・神が、そんなにたびたび人間ごとき卑小のものに、たびたび奇蹟を与えたりするものですか?」と言わせのたも、その証左です。
私は、あらゆる宗教を認めます。しかし、その言い方は、管理人さんの「あらゆる宗教への拒絶」と表裏一体を為すと思います。
形而上を表すのに、風土や文化によって異なるはずだ。というのが、私が宗教の千差万別に対する見方です。しかし、仏教以外の、各宗教は互いを認めようとしません。
宗教の話しは、大変難しいですね。
たしかに、簡単に神や奇跡を言う人間は、信用できないのもたしかです。その見極めは難しいと思います。
uenoさんこんにちは!
創作する側の人間の恐ろしさですが、自らの過ちや汚点でさえ、文章のネタにしてしまう。私は、実はuenoさんに話を振ってもらえたのがうれしいのです。内心、自分のことを語りたくてたまらなかった。逆に、セーブしないと際限なくしゃべってしまいそうです。
それはともかく、どうにもuenoさんからコメントを頂くようになってから、奇妙な偶然というか運命の律動というか、私を動かす何かが生まれていますね。正直なところ、uenoさんが『クモの糸』をお書きになりだしたのを拝見して、かなり動揺しました。このお人はなぜこうもピンポイントに心のツボを刺激してくれるのだろう。自分の現状を重ね合わせると、本家『蜘蛛の糸』ではカンダタに酷く感情移入します。私がカンダタだったら、戯れで救済の糸を垂らすお釈迦様を、行ってぶん殴って、地獄に突き落としてみたい、とも思います。(私が仮に書くとしたら、そういう不謹慎な話になってしまいます。歪んでいます)
「自分の身に起こることにはすべて意味がある」
私はこの考え方を、結果として、全面的に受け入れています。過去の宗教体験、しかもカルトという異常体験によって、私は人間や社会、ひいては世界そのものに対する見方、考え方が大きく変わりました。これは一般の人にとっては「歪み」なのですが、創作する側の人間がもつ「歪み」は何かを生み出す力の源、エンジンのようなものになります。これは私の実感です。
花村萬月先生経由で知った、小川国夫氏の言葉に「観念上の宗教はあり得ない」があります。小川国夫氏が自身の短編「エリコヘ下る道」を解説する際に書かれた言葉ですが、私自身の解釈としては、これこそが日本における宗教「観」と現実の宗教との間にあるどうしようもない乖離を読み解く一端であると思っています。
私は神や奇跡自体は否定しないスタンスをとりますが、あえて言うならそれらに対して単純に「信じる・信じない」の二択しか持ち出せない人間は信用できないと思っています。宗教とは、喩えるなら、北を向くか南を向くかという方角の問題ではなく、今自分がどこに立っているかという存在そのものの問題だからです。信じることも信じないことも、本質は同じなのです。だから、飛躍しますが、世界の各地で起きている宗教を核にした紛争やテロの意味を、観念としての宗教で捉えるのは不可能であり無意味であるとも考えています。しかし、それを説明するのもまた観念であるわけですから、本当の理解というものは恐ろしく難しいものなのです。
「あらゆる宗教への拒絶」とうっかり書いてしまいましたが、察せられているかもしれませんが、その「あらゆる」に「自分」が含まれていないことを告白します。「あらゆる宗教への拒絶」は容易に「自分のカミ」への傾倒となります。つまり、本質としては結局「宗教」になるわけです。しかも、この「宗教」は「観念ではない宗教」でもあるのですから(なぜなら自分そのものだから)、確固たる揺らぎないものでもあるのです。
そうなると、uenoさんのおっしゃる「私は、あらゆる宗教を認めます」はまさに私の宗教への拒絶と「表裏一体を為す」のは間違いありません。
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