投稿日:2024年11月22日(金)
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投稿日:2008年10月14日(火)
しかし、古い自分の作品を、今の自分の考えで書き直してしまうのはいいことなのだろうか。 私は、かつてイラストの世界で生きようと思ったことがあります。なんと言っても、美術の基本はデッサンです。デッサンにおいては、必ず、何度も直すことを第一原則としています。しかし、私はこれには納得できませんでした。
「この瞬間には、この瞬間にしか書けない線がある」と常々思っていました。だから、後になって手を出すのは、その瞬間にしか生きていない自分への冒涜とさえ思えました。
それは、文学に目覚めた今となっても変わらない部分があります。小説作法などの本を読むと、必ずと言っていいほど、推敲ということが言われます。美術におけるデッサンのような位置づけです。ある小説作法の本などは、数頁目に、小説の添削が載っていました。それは、入門者の作品で、作家である作者による赤ペンが原稿用紙を席巻しているのです。確かに、それは正しいのでしょう。しかし、私はこれを見た瞬間、うんざりする気持で、本を閉じてしまいました。
「この瞬間には、この瞬間にしか書けないものがある」どうしても、この言葉が頭に浮かんでしまいます。
こんな私はたぶん未熟なのでしょう。しかし、未熟な時代には、その時代にしかできないものがあると信じています。
uenoさんこんにちは!
まさに、まさにuenoさんのおっしゃるのと同じ気持ちです!
たとえそれが作品や練習として不完全だとしても、それを生み出したのはその瞬間に生きていた自分なんですよね。
以前、私はシュルレアリスムに傾倒していました。自らの主観にさえ影響を受けない、自分を超越した部分からやってくる言葉を待っていました。自動筆記、オートマティスムだったか、そんなものも真剣にやっていました。その結果生まれた詩はたくさんあるのですが、それが作品として発表できるものかというと……うーん。現実に直面します。
それはさておき、作品の推敲と精神活動の間には少し深い関係があると考えています。自分が一度生んだ文章を、もう一度自分に取り込み、さらにもう一度外に出すという一連の流れが意味するところは何か。思考によって生まれた言葉によって思考が影響を受けて言葉が生まれて、とも言い換えられます。まだ煮詰まる気配がないので、うまく言葉にできませんが。
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