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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月22日(金)

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人の振り見て我が振り直してしまう

投稿日:2008年10月15日(水)

傍若無人に振る舞いたいなら、他人の文章は読まないほうがいいなと思った。俺のことだ。

「人のふり見て我がふり直せ」なんてことわざは、余計なお世話としかいいようがないのだが、いざ他人が俺と同じようなことをしているのを見ると、ことわざに従うつもりはまったくないのに、自分の「ふり」を直してしまう。

たとえば、ちょっと気に入らない内容の本があったので、意地悪く酷評してやろうかと思ったとする。俺はまずWEBで検索して、同じ本を他の人がどのように評価しているか調べる。これは誰でもやるだろう。すると、たまたま見つけたサイトで、俺が考えていた以上にねちねちとその本をこき下ろしていた。それを見て俺は急に萎えてしまうわけだ。

もし、そのサイトを見つけていなければ、俺も同じことをやっていた。しかし、俺は見つけてしまった。俺は、俺がやろうとしていた行為を他人がやっている姿を見て、その馬鹿さ加減に呆れてしまう。誰かを馬鹿にするという行為は自分の馬鹿も同時に晒してしまうということだろうか。それに気づいてしまうと、もう書けない。書けるわけがない。

けれども、そんなことを繰り返していると、自分がどんどん「よいこ」になっていくのがわかる。「よいこ」は他人を傷つけない、迷惑をかけない、波風を立てない。文章を書く人間が「よいこ」になるのは、すなわちその他大勢、頭数、いてもいなくていい人になってしまうのと同じだ。文章を書きたいと思う根本には、他人に何かしら影響を与えたいという衝動があるはずなのだ。欲求なんて生やさしいものじゃない、衝動だ。その衝動が「よいこ」になっていくことでどんどん弱くなっていってしまう。こんなこと書いたら誰かに何か言われるかなあ、馬鹿だと思われないかなあ、俺が言わなくてもいいよなあ、と。

だからといって、一行目で書いた「他人の文章は読まないほうがいいな」というのも、間違っているんだけどね。あ、またひとつ「よいこ」になってしまった。
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非難と批評

「非難からは何も生み出さない」とは誰かの言葉ですが、これはある意味真実だと思います。意見はあると思いますが、非難を批評と言い換えてもいいでしょう。
 最高の批評家は最低のクリエイターに叶わないということもできると思います。たとえば、最高の文学の批評家がいたとします。彼はどんな文学作品もものしたことがないでしょう。あるいは、そうすることができないから、批評家になったとも言えます。逆に、クリエイターの素質は批評の邪魔になる可能性もあります。
 高級な批評と低俗なそれを区別する尺度はわかりかねますが、どちらでもあっても、本能的にクリエイターに嫉妬するのかもしれません。
 しかし、低俗な批評ほど作者の価値を貶めるものも珍しいと思います。こうしているのも、もしかして、批評に当たるのかもしれませんけど、そのような行為には自己の中に収めるのが正解でしょう。
 もうひとつ。批評には、他人に影響を与える本当の力はないと思います。
 p.s
批評にはおもしろい活用法があります。それは全く知らない対象を批評した作品を読むことです。そして、リソースを想像することで、楽しめますし、想像力を養うこともできます。
 

>>uenoさん

uenoさんこんにちは!

実は最近ある個人Blogを見つけまして、そこの管理人の方が毎日精力的に書評に取り組んでいらっしゃるのです。私が読みたいと思っていた本をことごとく採り上げているので非常にありがたいBlogなのです。ところが、書評と呼ぶには、どうにも歪んだ面をお持ちの方らしく、文章の端々から小さな悪意が漂いすぎていました。ときには正面からこき下ろしていたりもします。基本的に、私は何かを悪く言うのは嫌いです(上で書いた文章と矛盾していますが)。だから、他人がそういうことをやっているのを見ると、どうしても自分が反省してしまうのです。反省という言葉は嫌いと、いつか書いたのですけれどもね。

ともあれ、インターネットを含む、メディアの功罪を一つ挙げろと言われれば、私は真っ先に「間違った批評精神の蔓延」を選びます。私も含まれるのですが、多くの人は「感想」「批評」「批判」「非難」の区別が曖昧です。酷い場合は、全部同じだろうという人さえいます。これは通販サイトのAmazonにおけるカスタマーレビューを見ていると痛いほど分かります。さらには「毒舌」などという、「有名人、著名人にのみ許された行為」を、まったく無名の素人たちが行ってしまう。これはテレビの影響が強いのでしょう。(「許された」と書いたのは厳密な意味ではなく、言葉のあやですが。)これは偏見かもしれませんが、多くの場合、文章にしても口頭のコメントにしても、内容よりも「誰が言ったのか」のほうが重要なのです。このことは私が今より調子に乗っていたときに、ある人生の先輩から諭されたことだったりもします。ちなみに、私は、自分の過信によって人生が一度終わっています。そして、終わったあとにそのように諭されたので、深く、重く、受け止めることができました。

とはいいつつも、人間の本性はなかなか変えることはできないものですよね。

追記
上で「批評精神」と書いてしまいましたが、これもかなり多義に捉えられている言葉でしたね。この場では、あくまでも物事の「価値」を判じるという意味での評価が主であるとお考えください。つまり間違った批評精神とは、そこに個人の感情という要素が含まれてしまっているという意味合いです。
(ですから、我々が自分の好き嫌いを抜きに何かを「批評」するというのは難しいのだと思います。ちなみに、「批判」のほうはカント的な意味合いです。)


さらに追記
すみません、なんだか書きたいことがいろいろありまして。
同様に「価値」という言葉を上で無批判に使ってしまいましたが、「価値」も非常に多義でしたね。これはそれを評価する側の思想・主義によって大きく変わります。たとえば、今の社会のようにほぼ完全な商業主義・消費主義における「価値」と、純粋に作品としての「価値」、または歴史的な「価値」等々、「価値」がある瞬間において、一つに定まることはあり得ません。これは最近読んだボードリヤールから得た考え方なので、まだ完全に自分のものにできていません。すみません。精進します。

批評を

作品批評をある所でやっております。
簡素ですが、皆で作品批評しあって論議しております。(まだ深くはいってないが)
人の作品読んでると色々見えてきますよ。
物語の重要さが。ぜひここでもやってほしいものです。作品批評することで分かってきましたが、自作品には認識出来ていない事柄が作品批評すると見えてくるもんですね。
いや、それもまた楽しいもんです。それで作品向上を図ってるんですが。
(なんか悪者みたいだな)
そういうのん、しましょうよ
管理人さん、uenoさん意見待ってます!!

>>小生さん

小生さんこんにちは!

弱気になってしまうのですが、私ごときではまだまだ他人様の作品を批評するには技量が足りていません。
ただ、ちょっとした感想ならできると思います。お互いのプラスになることを目指しましょう!

小説と批評

「詩を批評するには、詩で行う」
 私はこう思います。よく、詩を論文で使うような文章で批評しているのをよく見かけますが、私の感覚とはあまりフィットしません。詩はごく感覚なものですから、論理と言ったものとなじむものか、疑問を感じます。
 「小説の批評は小説で行う」
詩と同じように、こういうことも可能だと思います。実は、これこそが小説を美味しく食べる一番よい方法だと思います。これはオマージュに限ったことではありません。世の中に流通するほとんどの小説がなんらかの影響を受けています。ただし、オマージュとはそれを意識的に行うものです。
 リレー小説はある意味、オマージュにオマージュを重ねていくものということができるでしょう。
 そこに、批評と言った冷たいイメージはありません。上から見る俯瞰的なものではなくて、対象に入り込んで味わうイメージです。
 すべてを抽出する学問的で冷静な態度が、最適とは限りません。むろん、そのような突き放した見方は必要でしょうが、クリエイターとしては、不足です。何にか?
 私たち、クリエイターはモノを生み出すのですから、外から対象を見物していてはだめだと思います。中に入って行かなくてはいけないのです。その方法こそが小説を小説で答えるという方法です。たとえば、ある作品のキャラを批評する場合、その好悪を云々するよりは、「ある特定の状況を与えたら、彼や彼女はこう行動するだろう」とした方が、より的確でしょう。これこそが小説です。

>>uenoさん

uenoさんこんにちは!

偶然、先ほど見ていたNHKのバラエティ番組で、(俗にいう)批評について「批評なんてのは、その物の周りをぐるぐる回っているだけのものだ。自分で作りだすのが大切だ」という意味合いのやり取りがありました。たまたま、批評について考えていたから記憶に残ったのだろうと思いますが、なんというのでしょう、自分に必要なものはむこうからやってくるのだなという気分です。

ともあれ、私たちはたしかにまだ素人ですが、それでも創る側の人間であることには間違いありません。uenoさんのおっしゃるように「外から対象を見物していてはだめだ」「中に入って行かなくてはいけない」が、クリエーターにとっての真理でしょうね。真理などという言葉をまた無批判に使ってしまいましたが、この場合は、フィーリングでいいでしょう。大切なのは真理の吟味ではなく、自分がその真理を真理たらしめることだと思うからです。

ちなみに、過去の自作の詩を見ますと、少しあからさまな批判精神(「批評精神」じゃないのが悲しい)が不完全燃焼のまま、生焼けのまま横たわっているものがいくつかありました。今見ると、結局は対象の周りをぐるぐる回っているだけのつまらない詩であることがわかります。
学ぶことがいろいろ出てきてうれしいところですね。

批評を受けること

>uenoさん
自分の欠点が小説内部で分かる人はいいですが、分からない人には批評を受けることにより、批評された他作品から得られるものがあるのです。
これはやってないとわかりにくいものですが。創作する上での自身での見えない部分を知る手がかりになりましたよ作品批評は。

ただ創作を10年ぐらい作ってきましたが分からないことだらけです。新しい試みにて発見を探すのも楽しいもんです。それがこの作品批評により、それぞれの人の向上に繋がればと思い始めております。

小生さん

 実はやってみたいとも思っています。周囲には「創造活動」からは縁遠い人間ばかりなので。
ただ、マスコミや特にネット世界に、多くいる人々。
「自分の顔を鏡で見たことすらない」が、他人を評しているのが、片腹痛かっただけです。

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創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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