投稿日:2024年11月22日(金)
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投稿日:2008年10月03日(金)
人間の目は顔の正面に二つある。だから、一度に前しか見ることができない。前しか見えないということは、人間はある瞬間においては世界の半分しか認識できないのと同じだ。見ることのできない背中側の世界は、今この瞬間も、ぼんやりとした気配となって俺の後ろに感じられる。 私の乏しい瞑想経験からすると、自我の中心は、体内の何処にもないような気がします。瞑想をはじめて、過去の体験、あるいは、前世(らしきもの)を思い返してみると、必ずと言っていいぐらい、上から眺めているのです。
例えば、私は5歳くらいの時に、鉄条網に足をぶつけて怪我をしたことがあります。その後、知らないお姉さんに、消毒をしてもらったのですが、それを思い返してみると、やはり、上からその映像が浮かぶのです。
瞑想を続けていくうちに、物に対する認識というのは、実際は、目、あるいは目に視神経を通して、つながった脳が行っているのではないと思うようになりました。ある物体を見つめていると、上からの像が同時に視点を結ぶようになったのです。
このことは、かつて管理人さんが書かれたブログの中で指摘されていました。コーヒーカップの話しです。ちなみに、あの話しは、管理人さんとリンクできた記念です。
自我の中心が、体内の何処にもないとなると、一体、何処にあるのか?それはまだわかりません。瞑想を続けて、いつかその答えに達したいと思います。もっとも、理性を超えた場所では、その答えを得ているのかもしれませんけど。
「理性を持って理性を制するのが瞑想である」とは何処かで聞いた言葉です。やはり、いつか達してみたいと思います。
uenoさんこんにちは!
uenoさんのお話でふと気づいたのですが、わたしの場合は「上から眺めている」のはではなく、どちらかというと、「下から見上げている」イメージが強いかもしれません。これは面白いですね。下から見上げるといっても、その感覚は微妙なもので、子どもの視線(目線?)といったほうがいいかもしれません。
それと、これはあとで書くつもりなのですが、自我の中心点を「感じている」のは「誰か」という基本的な問題が出てきます。あれですね、「自分を見つけた!」と喜んでいるのは「誰」というあれです。
自分を見つけた自分、を見つけた自分、を見つけた自分……と、終わらない。
やはり、答えに達するのは難しい。唯物論的な思考の影響も強く、意識は脳が生む出したもの、だから脳の中にある、という先入見も打ち払わないとだめかもしれません。本当、なかなか達するのは難しいことです。
自我の中心を感じているのは、誰か?という問題ですが、それはデカルトの「我思う故に我あり」で解決できるのではないでしょうか?
デカルトは、一切の否定からはじめました。
「目の前にあるものは、全部、幻覚かもしれないし、夢かもしれない」
しかし、どんなに否定しても残るものがあります。それは、一体、何が否定しているのであろう?ということです。何かがなければ、何も否定できるわけはないのですから。
これは、管理人さんがおしゃっている話しをちょうど裏返した形になります。
「唯物論的」思考を打ち消すいい方法があります。それは「唯物論的」思考を徹底することです。その理論によれば、すべての物は物質で構成され、物理法則によって説明されうるわけです。しかし、これを進めていくと、大きな矛盾にぶちあたります。それは「物理法則」なるものです。はたして、「物理法則」とは一体何でできているのだろう?という問題が発生します。例えば、目の前に消しゴムがあるとします。これは、陽子やら電子やらが「物理法則」に従って動きを為し、存在しうるわけです。では、その元になるはずの「物理法則」はどうでしょう?いくら考えても、「物理法則」が存在しうる根拠を見つけることができないのです。
これを考えてみると、何らかのヒントになるかもしれません。
uenoさんこんにちは!
自我の問題についての西洋哲学からのアプローチは今なお盛んなようですね。
デカルトは「思惟」によってコギトに到達しました。思惟することを思惟することができる。しかし、そのコギトもまた表象にすぎない。人間は表象することでしか認識することはできない。そうなると、コギトは表象そのものということになるようです。
じつは自分でも気づいてはいるのですが、私が書いていることには、やはり言語のもつ魔術的な力に侵されている部分があります。それは「中心点」すなわち「点」という言葉です。「点」という言葉がもたらす観念から、勝手に自我に中心があるという前提で思考を進めている。さらに、「点」という概念は必ず「全体」という概念の一部分に含まれてしまう。そうなると、点に喩えられた自我は、心象世界のどこかにぷかぷか浮かぶ粒のようなものにイメージされてしまうのです。
さすがに哲学者たちは用心深いらしく、そういう言葉による誤謬を避けるために、思惟によってのみコギトに到達したのでしょうね。
ちなみに、先ほど自我や存在について哲学事典等をひいていたのですが、余計に難しくなりました。ズバリこれだ、という答えはなかなかないものですね。
多重人格についてはどう思われますか?
これが、精神医学界に広く認められているのかわかりませんけど、もしも、正しいとするならば、「自我」が複数存在することになります。
仮定の上に、仮定を重ねますけれど、多重人格というものが病的な状態でなしに、ふつうの人間の「ある状態」にすぎないとしたら、どうでしょう。
自我と存在についての、何かしらのヒントにはならないでしょうか?
uenoさんこんにちは!
医学的なことはわからないのですが、多面的な性格という意味ではなく、自我が複数存在するという意味での多重人格は、私も興味があるところです。
ちょうど今読んでいたユングで、二重人格とコンプレックスの関係について書いてありましたね(uenoさんが教えてくれた入門書です)。
私は、最初は多重人格(二重人格も含まれるとして)については懐疑的な立場をとっていました。自我そのものが複数存在し得るのかという疑問があったのです。コギトの同一性というやつですね。「思惟している思惟」があるときとあるときで入れ替わっていたりしたら、どうなるんだろう。自分(肉体)のなかで「我思う、ゆえに我あり」と「何人」も言っていたらどうなるんだろうと。それぞれが自分自身が考えているということは否定できないのだから、うーん、どうなるんでしょう。
今回調べたところ「解離性同一性障害」なる言葉が生まれているのに気がつきました。いわゆる多重人格的な症状が、完全に否定できるものではないようですね。
自分の話に戻しますが、自分の意識があるすべての時間において、自分の自我(奇妙な響きだな)がすべて同一であるかどうか不安になってきます。仮に、記憶は共有されているとするならば、過去をふり返ったときにその場にいたのが「今の自分」なのかどうかはわからなくなります。現に、これを書いていてもの凄い不安に襲われているのですが、数年前の自分は普通の会社員、しかし今の自分はニートでありヒキコモリである。しかもその現状を受け入れてしまっている。ユングを読んでいてふと思ったのですが、もしかして今の自分は、王座を乗っ取ることに成功してしまった自我ではないか。きわめて冷静、客観的に観るなら、今の自分は過去の自分の基準からすればまったく唾棄すべき存在なのです。それにも関わらず、自分は自分として「存在」している。
なかなか面白いテーマなのですが、どうにも昨日から自分がばらばらになっていく感覚が酷くてわけがわかりません。いや、今この瞬間だって、私は私が考えているということを考えているのだから、たしかに存在しているのですけれどもね。うーん。
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