投稿日:2024年11月24日(日)
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投稿日:2008年10月21日(火)
道が幾筋にも分かれていて、逃げた羊を見失ってしまった。
文章の書き方をあらためて調べているうちに、そういう気分になった。せめて一匹でも捕まえたい。
メモや日記などの個人的なものから報告書や案内文などの公的なもの、さらには小説、詩などの創作物まで、文章といっても非常に幅広い。それぞれの文章にそれぞれの書き方がある。作法がある。何か一つの書き方を身につけただけでは不十分なのだ。
たとえば、前回のエントリに関連するが、小学校で習う作文は自分の「気持ち」を表現することが何よりも大切だとされる。じぶんがかんじたこと、おもったことをしょうじきにかきましょう、といわれる。それが自己表現というものだと教わる。
それはそれでいい。作文の書き方として間違ってはいない。しかし、あくまでも小学生の作文であるから、中学生、高校生となったら通用しなくなる。自分の「気持ち」だけを書いていてはダメなのだ。むしろ、自分の「気持ち」は書いてはいけないともされる。何よりも大切なのは、「主張」と「根拠」であって、さらにそれらを筋道立てて書く技能も要求される。つまり、どうかんじたか、どう思ったかではなく、どういう理由でどう考えているかを書くのが中高生レベルの作文となる。自己表現とは、社会との関わり合いのなか、自分がどういう意見を持つかであると教え直される。
ここまでが文章の書き方の一つの大きな区切りとなる。作文と呼ばれるうちは、それを読むのは教師だけだ。作文は、学校教育の習熟具合をみるための、一つのめじるしにすぎない。
これから先は、本当にさまざまな文章と関わることになるのだが、それらには作文とは異なる決定的な共通点がある。
読み手の存在だ。
ビジネス文書、ニュース記事、エッセイ、コラム、小説、詩、手紙等々、必ずそれを読む人がいる。文章を書くということは、すなわち誰かに向けて何かを伝えるという行為であり、何よりも読み手を尊重しなければならない。読み手を尊重するのだから、それぞれの文章の書き方に作法があるのは当然なのだ。
と、ここ数日、文章作法の本を読み直してわかったことだ。
「ある文章の作者は、その文章の完全な読者にはなることができない」
文章を書く上で、一番難しいのはこういうことだと思います。どんなに自分の作品を客観的に観ようとも、それは限りなく不可能です。なぜならば、作者は、その文章の親なのですから、自分の作品についてはすべてを知っているという自負があります。それがかえって、客観視する邪魔にもなります。
しかし、次ぎのようなことも言えると思います。
「作者は、自分の作品についてすべてを知っているわけではない」
これは、「人間は、自分についてすべて知っているわけではない」という心理学の図式を応用したものです。他人に文章を観てもらうというのは、この部分を観てもらうということではないでしょうか。
文章を書くということは、ただ作品を創るということに留まらないのではないか。何か、瞑想のような、自己の顔を鏡で見せられるような感覚でしょうか。自分の内面に迫るというのは、本当は恐ろしいことです。私は瞑想をするので、わかりますが、そこはカオスで、決して奇麗なものだけで構成されているわけではありません。
しかし、瞑想と違うのは、作品には他人の視線があるということです。この点が、「教育」が存在する理由でしょう。ただし、学校教育のやり方と「小説」とは相容れない部分もあります。それは、「読者に想像する余地を与えなくてはならない」ということです。ここにこそ、小説を楽しむ本質があると思うのですが、私は読者にこう言われたことがあります。
「詳しく書きすぎている。想像する余地がない」
私は情景描写が大好きです。ある場面を書く場合、あたかもリアルな絵を描くように、細かく書こうとしてしまいます。それこそ、テーブルの隅に転がっているレシートの文字まで描写したくなります。
これについては、かつて管理人さんが書かれていましたね。思わず、「ドキッ」とさせられたものです。
「何よりも主張に根拠がなけれならない」
話しを元に戻しますが、教育によってこれを徹底することには疑問を感じます。
「何を感じることにすべて根拠があるのだろうか」
文章を書いていて、常に思うことです。もしかしたら、ギリギリまで、ここに近づけることが文章を書くということかもしれません。
uenoさんこんにちは!
ある漠然とした、不安や焦燥のようなものに、私は襲われています。それは酷く単純なようでもあり、恐ろしく根が深いようでもあります。
それは、文章を書くことによって、自分自身が、自分自身の行為(書くこと)によって、自分の予期せぬものへと規定されていく恐怖といえるかもしれません。
uenoさんの言葉を借りるなら、作者である私はたしかに文章の親ですが、同時に、文章が私の親にもなっている。文章によって私が作られている。それは主観、客観のどちらにもいえます。ですから、古典的な哲学がそうであったように、私たちは自分について知っているようでありながら、実は文章(言葉ですね)の持つ魔術的な力による幻惑を見せられているだけであるのです。これは「自分」だけに限らず「世界」の捉え方も同様です。
だから、私は瞑想において「言葉を捨てる」ことにこだわっています。それはつまり「自分とは何」「世界とは何」という「言葉」そのものを捨てることであり、「問い」が「答え」を隠してしまっていることに気づくことでもあるのです。
ところが、これはあくまでも自分の内面での話にすぎません。たとえ瞑想によって、「それ」(あえて自分とか世界とかに分けません)に到達できたとしても、現実の自分は何も変わらないのです。なぜなら、自分に対する他者の認識までをも瞑想で変えることはできないからです。
結局、私は捨てたはずの言葉をまた拾い集めることになります。自分を認識してもらうためにです。まさに、呪縛。
ここ最近のエントリで学校教育を題材にしているのは一つのアプローチにすぎません。教育そのものが自分を規定することはありませんが、教育によって形成された自分が、上で書いた流れのように、自分自身を規定していくのです。それはuenoさんのおっしゃる「何を感じることにすべて根拠があるのだろうか」 に直結するのではないでしょうか。
安易に答えを出したくないのですが、私にとって文章を書くという行為は、言葉の持つ魔術的な力、呪縛に近いそれを、他者(読み手)に行使することかもしれません。
まだ煮詰まってはいませんが、少しずつわかりかけています。
*追記
実際、私はこのBlogを書き続けていることによって、変わってきていると思います。私自身の内面はもちろん、読者が持つ私へのイメージもです。錯覚というおそれもありますが。
小説を書いていて思うのですが、改めて読んでみると、確固としたしたイメージができあがっていることに驚きます。作品をものす段階にあっては、それほど完成されていなくても、一度、文章にしてしまうと驚くほど、リアルに目の前に在るのです。
それはイメージに留まるものではありません。小雪が舞うなか、少女があてどもなく彷徨った街角。恋人同士がケンカした部屋などが、あたかも本当に存在するように迫ってくるのです。それは、私が創造した世界ではなしに、本当にある世界を覗き見して書いたかのようにです。
まさに、「自分が~自分の予期せぬものへと規定されていく」のが実感となっていくのがわかります。
これは文章の持つ魔術的な力でしょうか。この力を多少なりとも得てしまった私たちとしては、その恐ろしさを自覚して使うべきでしょうね。
uenoさんこんにちは!
小説でも、詩でも、どんな文章でも、それは自分が間違いなく考えて書いているはずなのに、できあがったものは自分の考えていたとおりのものにはなりませんよね。私は自分のなかにある世界を眺めながら書いていたはずなのに、その世界は自分のなかではなく、書いた文章のなかにこそあった。そういう感覚でしょうか。私が書いたからその文章がそこにあるのではなく、その文章がそこにあるから私が書けたのではないか。「文章」を「世界」に置き換えても、同じですね。こと文章に関しては、因果律などというものは超越しているようにも思えます。
そして、文章が、言語が、21世紀の今になっても、いまだに魔術的な力であるのは、科学者の手法では世界が創造できないことにも通じていると思います。
私はこれからしばらくその力に身を委ねようかと思っています。もはや、分析や理論からは世界が生まれないということはよくわかりました。創るためには、創る。書くためには、書く。創造とは創造である、という同語反復のなかに、何かを生み出す力が秘められているのかもしれません。
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