投稿日:2024年11月22日(金)
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投稿日:2008年09月20日(土)
ショートショート的な、いわゆるひねりとオチがキモとなる物語において「価値観の逆転」は基本的な手法だと思う。「視点の逆転」ともいえるかもしれない。俺は藤子・F・不二雄先生のファンなので例をあげるのも先生の作品になってしまうが、たとえば「ミノタウロスの皿」では牛と人間の立場が入れ替わった星の話、「気楽に殺ろうよ」では食欲と性欲の社会的価値が逆転した平行世界の話だ。ちなみに、先に言っておくと、俺は冒頭で書いた「ョートショート」というものが好きではない。「ひねりとオチがキモとなる物語」が好きではない。遠回しに、何かを牽制しているわけだが、そちらはそちらであまりに支持者が多いのでなるべく喧嘩は売りたくない。俺は藤子・F・不二雄先生の作品については、安っぽい響きのある「ショートショート」を超えた次元にあると思っている。同時に、文字だけの小説には不可能な、マンガだからこそ表現できる(この言い回しがすでに陳腐きわまりないが)世界を支持したい。世界とは、最近だったら、空気といったほうがしっくりくるかもね。小説で表現できる空気と、マンガで表現できる空気はまったく違うものだ。
話がそれてしまった。
何が言いたいかというと、「価値観の逆転」で作られた作品は慎重に吟味しないと他人のアイデアとかぶってしまうということだ。今書いている文章は自戒も含めているが、わかる人にはわかるだろうけど、今騒がれている某作品のことだったりもする。タイトルを書くと検索でやってくる人がいて困るんだ。検索でやってくる人というのは、別にかまわないけど、ときにひどく短絡的な感情でもって持論や怒りをぶつけてくるから、怖い。ついでにいうと、俺はどっち(渦中の小説家と漫画家)のファンでもない。俺は藤子・F・不二雄先生の作品と魔夜峰央先生の作品さえあれば残りの人生を楽しく過ごせる。ちなみに小説だったら花村萬月先生だけど。
最後にとんでもなく酷いことを書くが、ショートショートという概念が世の小説家志望たちにある偏った小説観を与えてしまっていることについては、誰か何か書いていないのだろうか。
※※※
追記というか、ここまで書いておいて自分がとんでもなく重要なことを忘れていることに気づいた。藤子・F・不二雄先生の短編は最初から大人を意識して描かれたものが多いということだ。純粋に物語の面白さを子どもたちに伝えようとする行為と、社会風刺や問題提起を含めたメッセージ性を同列に語ってはいけないだろう。ああ、うまく言えねぇ。というか、これがうまく言えたら俺はこんなところでくすぶっていない。
※※※
また追記というか、いつもだったらこういうのは消してしまうのだが。「ショートショートの概念」なんてさらりと書いてしまったけど、概念とか言い出すならまず真っ先に俺自身がショートショートの本質を何かつかんでいるのかと自問せねばなるまい。他人にとやかく言う前に、まず省察せよ、か。だったらおまえ書いてみろと言われてもすみませんごめんなさいと謝るしかないのだから。あー、ここでビシっと自作を呈示できたら最高にカッコイイんだろうなあ。だから小説家に憧れる人がおおいのかもしれない。
「価値観の逆転」有史以来、人間が創ってきたパターンだと思います。ですから、「小説」の練習用としてはいいと思います。しかし、実際にオリディナルティを目指すなら、ゼロから作品を構成したほうがいいでしょう。なぜならば、そこにこそ「小説」の魅力があるからです。他のメディアにない魅力は、小説には基礎も応用もないことです。あえて、いうなら言語こそが基礎でしょう。しかし、これは基礎とは言えないものです。それはあらゆる世界の土台だからです。何もない処からの模索こそが、何かを生み出すのだと思います。
p.s 花村満月先生は、私も尊敬する作家です。『ゲルマニウムの夜』は傑作としか言いようがありません、続編が待ち遠しいです。
uenoさんこんにちは!
いつもコメントありがとうございます。
言語のもつ魔術的な力を考えたとき、いったい自分は誰の言葉によって構成されているのだろうと考えてしまうと思います。それは単純に、自分の持っている言葉はすべてどこかから覚えたものであるという事実でもありますが、言葉によって自分の思考までもが変化するというあの考え方にも依ります(誰だっけ)。思考の結果として言葉が生まれるのではなく、言葉を知っているから思考ができるという考え方です。ですから、以前にuenoさんがおっしゃった「小説とはひとつの言語」という捉え方に、微妙に意味は違っているかも知れませんが、なるほどと共感するわけです。
「価値観の逆転」は私も人間の根本にある、物語を作るための原理のようなものの一つではないかと考えています。「価値観」を「逆転」させる原動力というかきっかけは、支配する側される側、虐げる側虐げられる側といったなかなか消滅することのない世界の仕組みのようなものがあるからだとも考えています。今、この瞬間の世界で正しい、価値があるとされているものを無批判に受け入れることは時代に対して自分が服従してしまったことになるような気がするのです。だから、ささやかな抵抗として、小説家は小説を書くのかも知れません。何百年後かわかりませんが、未来の人々が歴史を学んで、今私達がいる時代を「こいつら阿呆だな」と笑っているかと思うと、なぜ自分がその未来人になれないのか悔しがったりもします。
つまり、長くなりましたが、「価値観の逆転」万歳!
それとは別に、ちょっとカミサマ気取りにもあこがれるので、どうやって完全な創作をするかも考えてしまいます。これは別のところに書くつもりです。
ところで、uenoさんが花村萬月先生を尊敬されているということに少し驚いています。やはり、ある種の人間にとって花村萬月先生は絶大な影響力を与える存在なのでしょうか。私は小説に必要なことはすべて花村萬月先生から得るぞ、というぐらいの入れ込みようです。
管理人さんの文章を読んでいると、いかに自分が感覚に頼りすぎているかわかります。ドイツの哲学者フッサールを最後に、モノを考えることを止めてしまった課程があります。しかし、ここに来て、考えることを再開しなければと思い始めています。「時代に対する抵抗として小説を書く」というのは、そう言われてみれば、私が無意識にやっていたことでした。それを意識的にやるのとそうでないのとでは、かなり違いがありますね。考えてみたいと思います。
p.s 花村先生に、関しては小説の参考にするというよりは、かつてその作品によって、心臓をわしづかみにされて、まだその余韻が残っているという感じです。まだ、「やられてしまった」とあっけに取られていますね。
こんにちは!
コメントありがとうございます。
私は、なんていうのだろう、自分のなかで思考と感覚が周期的に主人の座を奪い合っているような気がします。今、私は自分が妙に理屈っぽくなっていて、感覚の領域に言葉で踏み込もうとしているのが自分でもわかります。こうなると、文章は書けるのですが内容に意外性がない。
しかし、以前は逆に言葉の領域を感覚でもって照らし出そうと努力していた覚えがあります。言葉による思考を停止せよ、と瞑想に励んでいた頃もあります。こうなると、漠然と何かは浮かんでくるけど、言葉にできないから文章に書けない。すると今度はまた感覚の領域に……と、いわゆる堂々巡りでしょうか。そんなことばかりしていました。
ちなみに私の場合は、昔、禅の思想(?)にはまっていたことがあり、その流れで思考停止や自己を無くすことに夢中になっていました。
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