忍者ブログ

ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

[PR]

投稿日:2024年11月24日(日)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

階段

投稿日:2008年09月17日(水)

夢の要素の一つに「階段」がある。これは特別珍しいなことではないと思う。自分の場合はどこまでも階段を「飛び降りる」夢をよく見る。階段を、飛び降りるのだ。

学校なのか病院なのか会社なのかわからない。暖かみのない無機質な空間で、白や薄い水色の壁とぼんやりとした蛍光灯、静かに反響する靴の音、あるいは病院の匂いを感じることもある。

俺はその階段を小走りにどこまでも下っている。その先に何があるのかはわからない。下っているうちにだんだんと飽きてくるというか小さな挑戦心のようなものが芽生えるというのか、階段のステップを一段、二段、三段と飛ばしてみるようになる。手すりにつかまっている手をガイドにして滑るようにジャンプする。四段、五段、六段、いくらでも飛ばせるように思える。そのうち、一気に踊り場まで飛び降りられることに気づく。おそらく、手すりにつかまっている限りはどこまでも飛び降りることができるだろう。そう考えた。(念のために書くけれどもこれは夢のなかの話なので真似しないでください)

踊り場まで一気にジャンプできるようになってもまだ物足りない。だから今度は踊り場が迫ってきても着地せずに、手すりにつかまる手を支点に身体を180度回転させる。そうすれば次の階段が目の前にある。その下には次の踊り場が見える。その踊り場についたらまた空中で向きを変えればどこまでも飛び降りることができるのだ。足を床につける必要はもうない。

いったいどこまで続く階段なのかわからないけど。

こういう夢はともかく、スピリチュアル系で階段のメタファーは必須だ。天国地獄のイメージもそうだし、人間の上下関係なんていう言葉にも表れているように、人間とはどうやら上下方向に特別な意味を感じ取っているようだ。上にいくほどあかるくきれいで下にいくほどくらくて汚い。立派な人はイメージ的に上方向にあり、ダメな人間ほど下方向にある。そのメタファーを現実のものにしたいがためなのか、たとえば会社において社長室はほぼ間違いなく最上階近くにあるし、ホテルにしても高級ルームほど上の階にある。さすがにダメ社員や貧乏人を地下室に押し込めることは(たぶん)ないけれども。そして、階段はその上下をつなぐ接点であり通過地点であり、またある種の人々にとってはより上のステージを目指す希望の象徴だったりもするのだ(大人の階段のぼるなんて歌もあったよね)。

魂の階梯や悟りの階梯なんて言葉があるけれども、どうしても宗教観がつきまとってしまうので、語るためには慎重にならざるをえない。深い意味や正しい定義は置いておくとして、まあとにかく「上」へ昇って行けよ、ということなんだろうけどね。

逆もある。どこで得たイメージでどんな理論なのか今となっては判然としないのだが、人間の心の奥深い部分、いわゆる深層心理とか無意識とか呼ばれる領域へのアクセスは「階段を下りて」行くのだ。すでに「心の奥深い部分」という言葉を思わず使ってしまっている時点で、洞窟や地下といったメタファーにとらわれている。

昔聞いた癒し系の催眠CDでは、目の前に階段があるとイメージしてそれを下りて行きなさい、そうしてその先にあるドアを開けなさい、ドアの先にいるのが本当のあなたです、という意味合いのフレーズがあった。結局、何にも会えなかったけど。

クトゥルフが好きな人なら、これって夢の国でしょ、というかもしれない。あれもたしか何百段だかの階段を下りて行くからね。

これらのことから、俺がよく見る階段の夢が珍しいものではないといえるのだ。もちろん、上に書いた知識を得る前、保育園の頃から階段の夢は見ているので、やはりほとんどの人間に共通するイメージなんだと思う。たぶん、誰もが階段の夢を見ているのではないだろうか。

ちなみに、俺の夢の場合、ごくまれに階段の終わりに到達するのだけれども、そこには恐ろしいものがある。ある、というか、いる。あるいはこの世のものではない世界だったりもする。当然、逃げようとするのだが、結末はいうまでもない。









PR

終わらない夢

投稿日:2008年09月16日(火)

子どもの頃は当たり前のようにできたのに、気づくとまったくできなくなっていた。

怖い夢や嫌な夢を見ているとき、これは夢なんだから目を覚ませばいいんだ、という単純きわまりない理屈で強引に目を開けて現実世界に戻ってくることが昔はできた。小学校に入る前までぐらいだ。今考えてみると、信じられないような高等テクニック(?)を実践できていたのだ。まず夢のなかで夢と気づくことが難しい。夢だと気づいても、そこから現実世界の肉体にアクセスしてまぶたをこじ開けるのも難しい。もちろん、単に眠りが浅すぎただけかもしれないけれども。

保育園児だった俺でもそのテクニックは凄いとわかっていたらしく、よく周りの子に自慢していた覚えがある。俺は夢から無理矢理覚めることができるんだぜ、怖い夢でも平気だぜ。とはいっても、だからなんだ、という反応しか返ってこなかったが。

あるとき見た夢では、俺は保育園の庭でみんなと一緒に円になってぐるぐる廻っていた。お遊戯のようだが自分たちの輪の周りを弓を持った兵士がぐるりと囲んでいた。そして輪が一歩動くたびに一人ずつ射貫いていった。それが死を意味することは五歳の俺にもわかった。ただ殺されるためだけに一歩一歩進んでいくという理不尽な状況に恐怖以上の怒りを覚えた俺はこの世界の放棄を決意した。俺の前の子が射貫かれ、いよいよ自分の番が迫ったとき、俺は渾身の力をふりしぼりまぶたをこじ開け夢から覚めることに成功した。目が覚めてから少し後悔した。もう少し早く夢を終わらせていれば、俺の前に死んでいった子たちも助かっていただろうにと。

こんな芸当は小学校にあがるぐらいになるともうできなくなり、奇妙な能力を持っていたという記憶だけが残された。もう一度試してみたいと思っても、夢のなかで夢と気づくことがすでに難しくなっていた。また、夢そのものが自分にとっては楽しい世界だったので、わざわざ目を覚ますこともないと考えるようになっていた。記憶はだんだん薄れていき、忘れたことも忘れるはずだった。

ある日おばあさんが死んだ。

大好きなおばあさんが、死んでしまった。昨日生きていた人間が、今、死んでいる。死んでいるということはどういうことか。身体は俺の目の前にあるのに、もう二度と目を開けることはないということだ。それは、永遠に、だ。永遠とはなんだ。永遠とは、ずっとだ。ずっと、この先ずっと、ずっと、絶対に。絶対とはなんだ。絶対とは、絶対だ。本当にこれは絶対なのか。絶対だ。本当に、本当か。本当だ。もう二度と絶対、永遠に、目を開けることはない。つまり、これが、死なのか。

理解できない状況に陥ると、人は驚くほど陳腐になる。それは俺も同じだった。泣きながら布団に潜った俺はこうつぶやいた。

「これは夢だ」

そう、夢だ。こんなことが現実にあるわけがない。現実にあるわけがないのだがら、夢だ。夢ならば終わらせればいい。記憶の底から、昔できたあの技、保育園の頃には当たり前のようにできたあの能力のことを引きずりだした。あれは今こそやるべきなのだ。目を、現実世界の肉体のまぶたをこじ開けるだけでいい。そうすればこの夢は終わる。夢から覚めれば、おばあさんは生きている。そして俺は思うんだ。とても嫌な夢を見ていたなと。すべての意識を集中し、俺はまぶたを開けるための神経回路を探した。今自分が感じている肉体は幻だ。このまぶたは本当のまぶたではない。感覚を超越し、意識を現実世界の肉体に戻すのだ。昔は簡単に、できたのだ――。

一晩、がんばった。火葬場へ向かう早朝のバスの中でも、がんばっていた。火葬場の待合室でもがんばっていた。白い壺に、燃えかすみたいな白い残骸を、長い箸を使って入れているときも。帰りのバスの中。読経。正座でしびれる足。茶碗で食べるうどん。線香の匂い。誰もいなくなったおばあさんの部屋。

なぜ俺の本当のまぶたを開かなかったのだろう。なぜ、昔はできたのに今はできなかったのだろう。陳腐に始まったものは陳腐に終わる。悲しいけれども、それが普通の人間なんだと思う。陳腐なんだけれども、俺は眠りにつくためにつぶやいた。

「これが現実なんだ」












おばさんだったら俺はおっさん

投稿日:2008年09月16日(火)

マクドナルドのレジ前付近に立っていると知らないおばさんが声をかけてきた。すみませんが並んでいるんですか、と。俺の立ち位置がレジに並んでいるのかいないのかあやふやだったらしい。デブは無駄に空間を占有するから困る。無自覚でごめんなさい。

するとその知らないおばさんは俺の顔を見るなり「○○君だね久しぶり」という。俺はこんな小柄でふくよかでステキなおばさんに知り合いはいないから困った。あるいは以前いた会社のパートさんだろうか。それとももっと昔の、アルバイト時代にお世話になった人だろうか。そういえば農協でバイトをしたときはおばさんだらけだったなあ。もしかしたら暇を持て余したマダム(正しい使い方わからんねこの言葉)が新しい玩具として俺に目をつけていたのかもしれない。なるほど、普段誰かに見られている気がするのはこのおばさんが雇った探偵なのかもしれない。ちくしょう、名前以外に俺のことをどこまで知っているんだ。お金はちゃんともらえるのだろうか。どんな性的嗜好でもって俺は奉仕せねばならないのだろう。俺の腹を構成する脂肪の塊がある種の人々にとっては貴重な肉枕になることは容易に想像できる。俺は俺の腹にその顔を埋めるこのおばさんの姿を想像した。

「ごめん、誰だかわからない」
「えー、ひどい」

あまり股間を刺激しない加齢臭が漂うような妄想はやめにした。名前を聞けば、小学生のときにクラスが一緒だった同級生だとわかった。そういえば昔からこんな体型だった。ふくよかな体型はそれだけで温和な性格をイメージさせる。だから、嫌いではなかった。しかし、忘れられないほど仲がよかったというエピソードはまったくない。酷い言い方をすれは、俺にとってのその他大勢、だ。

「小学校のとき同じクラスだったよね」
「えー、高校も一緒だったよ」

俺はぜんぜん覚えていない。

「昔、バイトも一緒にしたよ」

ホントにまったく覚えていない。俺の記憶力は相当悪いらしい。いや、記憶力の問題もあるかもしれないけれども、小学校も高校も今となっては遠すぎる思い出だ。わかってはいるけれども、同級生の女の子が、野良着が最も似合うだろうなと思わせる雰囲気のおばさんになっているということは、向かい合っている俺は傍から見れば間違いなくおっさんなのだ。田舎のマクドナルドで、久しぶりに会った田舎のおばさんとおっさんが語らいでいる。そんな風景。





悪夢はどこからやってくる

投稿日:2008年09月15日(月)

毎日悪夢の連続なんだけれども、今日は酷かった。自分の夢で吐き気がした。

俺は女と一緒にいた。ショートヘアーの小柄な女で、カーキ色の作業着のような服を着ている。年齢は20代にも見えるしそれ以上にも見えないことはない。俺はその女と一緒にどこともわからない建物の廊下を歩いていた。非常に嫌な気分だった。ベニヤ板で作ったような粗末なドアがあった。女がドアを開けると、狭い部屋があった。部屋の中にはスチールの事務机が一つと、背中を向けたスーツ姿の男が一つあった。その男の姿をしたモノは首にロープをかけたまま天井からつり下がっていた。

女は死体芸術家だという。

これはステキなんですよ、とスーツ姿の男をトンと押す。ゆっくりと回転しながら正面を向いた男の、おそらくは顔だと思われる部位は、無残にも膨れあがり歪んでいた。俺は生理的な恐怖を感じた。少しでも触れば内部に充填されているドロドロの液体が強烈な臭いとともに噴き出してくるようで恐ろしかった。俺は逃げ出したかったが、女の何か魔術的な力がそれを許さなかった。だから、夢からも覚めなかった。

女に連れられ別の場所へと向かう。ここは死体がかつて生きていた世界を想像し、死体でもって彼らの生活や最期を再現しているのだという。それが彼女の芸術だった。今歩いている場所はいつしか廊下からアスファルトに変わっていて、巨大な筆で描いたような黒く長い線が緩やかにのびている。筆の役割をしたモノは、人間だ。線の終着点には両足だけが原型をとどめたそれが一台のクルマに挟まったままになっていた。アスファルトよりもドス黒いこの線も、描かれた瞬間だったなら、まだ真っ赤だったのだろう。

次に訪れた場所は、図書館だった。柔らかい午後の光が差し込む静かな図書館だった。ここに死体は、ないらしい。悪夢からの解放を予感した俺に、女は一冊の本を差し出した。粗末なカバーはわら半紙のようで、白い紙が栞がわりに挟まっている。そのページを開くと、死体写真だった。最初に見たスーツ姿の縊死体がモノクロ写真になっている。俺は本を閉じた。女はもっと見ろという。まだまだ、ここにはたくさんあるのだから、と。

ようやく目が覚めた。

ここはたしかに俺の部屋だ。体中が痛い。変な姿勢で寝ていたから悪夢を見たのだろう。夢だとわかっても、まだ心臓の鼓動は早い。布団に入ったまま、なんとなく部屋の隅に目をやるとそこにはロープを首にかけた男の姿が……見えそうで怖かった。なにやら空気に不吉なものを感じた。自分の部屋なのに怖くて堪らない。部屋から逃げ出して両親のもとに行こうとも思ったが、自分の年齢を思い出すと、再び布団に潜り込んだ。

俺は女と一緒にいた。ショートヘアーの小柄な女で、カーキ色の作業着のような服を着ている。女は俺を待っていた。もう一度最初から見ますか、とあの粗末なベニヤ板のようなドアを指し示している。手には、わら半紙のようなカバーに包まれた本を持っている。なるほど悪夢とはこういうものなんだな、と夢のなかの俺は納得しかけていた。終わらないのだ。終わらないから、悪夢なんだ。そこにはストーリーもなければ解決もない。この世界に捉えられたまま彷徨い歩くしかないのだ。

長い夢だった。抱き合ったまま黒こげになっている親子や、無限に落下する肉片や、お遊戯室のなかで遊びながら弾け飛んでいく子どもたちや、ビニール袋に包まれたまま水中に沈むサラリーマンや、手足あるいは頭の欠損したまま行進を続ける軍服たち。およそありとあらゆる死がそこには再現されていた。それが女の芸術だった。

なぜ俺はこの死体芸術家の女に魅入られたのだろうと考えた。なぜこの女の作り出した最悪のギャラリーにいなければならないのだろう。いや、なぜ俺は俺の作り出しているはずの夢に苦しまなければならないのか。抑圧された自殺願望なのか。あるいは俺が今まで妄想のなかで殺し続けてきた人間たちの怨念なのか。夢のなかであるにもかかわらず、俺は考えていた。もしくは……現実の俺はすでに死んでいるのかも知れないとも思った。この眠りにつく前に、俺は俺の首についにロープをかけてしまったのか。そんな不安にかられたとき、ああなんだ、俺は観客じゃなかったんだなと悟った。俺もまた、この死体芸術家の作品の一つだったのだ。

女がじっと俺を見ていた。





ソクラテスの人事を見た

投稿日:2008年09月14日(日)

NHKで土曜の深夜に放送されていた「ソクラテスの人事」というバラエティ番組を見た。最近よく番組宣伝を見たので気になっていた。人気企業が実際に行った採用試験、とはいっても正解が存在するような問題ではなく、本人の発想力や独創性を試す「お題」のようなものが出題される。それに挑む解答者はタレント、お笑い芸人、大学教授といった10人。昨日はたしか森永卓郎、品川祐、土田晃之が出ていたなあ。毎回同じなのかな。変わるのかな。

面白いのはその企業の人事部が本当にスタジオに来ていることだな。昨日はヤフー、バンダイと他二社(もう忘れた)だった。ヤフーの出した問題はたしか、風が吹けば桶屋が儲かる方式で、

「ロングヘアーが流行すると」

「」

「」

「」

「」

「牛丼が98円になる」

あいだの4つを埋めろというやつだった。なんのこっちゃいと思ったが、論理的に物事を考える力を問うらしい。

バンダイはフラスコ、下駄、そろばん、たわしといった小物が用意されていて、それらを新しい商品として1分間でプレゼンしろという問題だった。

最後まで見たけど、正直な感想として、期待していたほど面白くはなかったな。つまらないとは言わないぜ。あまり知的な驚きはなかった。えー、そんな解答でいいのかよと何度も思った。各企業は知識ではなく知性のある人間を求めているような口ぶりだったけど、その企業自身がある意味頭の固い無個性な判断をくだしているように見えた。最終的にはその企業の枠にきっちり収まる人間を求めている。ビジネスなんだから当たり前なんだろうけどね。クリエーター的独創性は必要とされていない。このあたりの違いをうまく言葉にしたいところなんだけどなあ。もどかしい。

嫌な深読みをするなら「汝自身を知れ」って企業側に対する言葉なのかもね。そりゃないか。


 ***

なんてこと書いているけど、会社員時代にバイトの面接を担当したら、俺の採用したバイトがことごとくダメということで怒られた。おまえは人を見る目がまったくない、だとさ。

twitter

facebook

レコメンド

人気記事

ブログランキング

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ

★ブログランキングに参加しています。

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

HN:
小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


バーコード

ブログ内検索

あわせて

あわせて読みたいブログパーツ

アクセス解析

忍者アナライズ

お知らせ