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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月23日(土)

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やりなおしの夢

投稿日:2008年09月24日(水)

夢の一般的なパターンだと思うが、学校時代をもう一度やりなおすという夢を頻繁に見る。

やりなおしといっても、えーまた学校行くのかよ、といううんざり感はない。やり直せるんだ、という期待感に充ちた夢が多い。脚色するなら、今の現実に対して、ああ夢でよかったなあ、と胸をなで下ろしている姿を付け加える。

久しぶりに入った教室で感じているのは、未来への希望だ。ここにいる限りは無限の選択肢がある。なりたいものになれる。やりたいことがやれる。生きているということは、約束された幸福に近づくために歩いているのと変わりない。歩いていれば、いつか辿り着く。夢のなかの学校は希望の象徴にも思える。

ところがだ。この夢のパターンは必ず嫌な方向へ向かう。夢のなかで現実を認識しだすのだ。現実の俺がそうだったように、急に学校に来るのが嫌になる。教室に座っていられない。なんでこんなところにいなければいけないのだ。俺は立ち上がり、教室をあとにする。クラスメートが驚きの表情を見せ、先生は俺を追いかけてくる。追いかけてくるとはいっても、俺が取る行動はひたすら無視することだけだ。学校を出ながら俺は、けっきょくいつも同じなんだよな、と思っている。

また別の学校の夢では、上に書いたことを反省しているのかしっかり勉学に励もうと決意する。もう同じ過ちは繰り返さないと夢のなかで思っているのだ。しかし、授業が始まり、教科書やノートを取り出そうとするが机のなかにない。鞄のなかにもない。あるわけないのだ。自分はすでに学生じゃないのだから。俺は立ち上がって先生にいう。わりぃ、俺はもうとっくに卒業していたんだった、帰るよ、と。

そんな夢をもう何百回と見ている。一晩に二度三度見ることもある。不思議なものでそれだけ何回も見ていると夢に馴れてしまうのか、最初の頃に感じていたリアリティは薄れてきて、だんだんと演出が加わる。教室を出るにも悪気をまったく感じず、机を蹴り飛ばしてみたり、出入り口近くの生徒を殴り飛ばしたり、ときには学校そのものを破壊したりするようになった。

夢の解釈は、実はどうでもいい。分析は他人がするもので、俺は俺の見た夢を俺なりに感じ取ればいい、と最近考えるようにしている。

ただ、頻度の問題はどうなんだろう。たまに見るならまだしも、尋常じゃない回数を見ている。さすがに普通じゃないよなあ。念のためいうと、俺は学校へは二度と行きたくない。なんでわざわざ劣等感を味わうために行かねばならんのだ(昔の持論)。もう絶対に嫌だ。だから単純にフロイトのいう願望充足ではない(と思いたい)。


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最後と最期

投稿日:2008年09月24日(水)

誤用を指摘されたとかの話じゃなくて、自分の好みの問題だけどね。

「最後」と「最期」の使い分けは、感傷的な文章が好きな人ならこだわりを持っていると思う。字面と言葉のお遊びも含めて、たとえば「一日の最後」と「一日の最期」では、受け手がどう捉えるかは別として、かなり大きな違いがある。正誤の問題でもないぜ。込められた意味の違いだ。

一言でいうなら、死の匂いだ。

どちらがより強烈かといえば、もちろん「最期」のほうだろう。「最期」には続きがない。新たな始まりはない。もうおしまい。本当に本当に、終わり。「一日の最後」のあとには次の日があるけれども、「一日の最期」にはもう同じ日は二度とないという感傷が含まれている。その日一日をひとつの命となぞらえている。そういう意味では、「一日の最後」は夜の11時から12時直前ぐらいまでの時間帯かその人にとっての最後、つまり寝る時間を示しているだけだが、「一日の最期」ではその日そのものが終わる、死ぬという情況が見えてくる。

だから、普通の文章ではうかつに使うことはできない。詩でもないのにうっかり「~の最期」と書いて、その意味が伝わらずにただ笑われるだけというのは嫌だ。

ちなみに、「最期」というのは命の終わりを表す言葉だ。念のために辞書をひいたらあっていた。よかった。「最後」のほうは辞書をひくまでもないだろうけど、並んでいるものの一番後ろという意味だ。と思ったけど、こちらも念のために辞書を見たら「臨終。死。最期。」とあったから、人の命の終わりに使っても間違いではないのだ。

命の終わりを表すということは、「最期」を使うことによってそのものに命があったことを暗に示す効果もあると思う。このへんは俺の虚構を含んだ感覚だから話半分に聞いておくれ。

だから、ある人が無意識に「最期」を使うときは、その対象を命あるものと見ているときかもしれない。思い入れがあるのだ。「ノートの最後にさよならと書きました」と「ノートの最期にさよならと書きました」では伝えたいことがまるで違ってくるだろう。前者は単にノートの最終ページのことであるが、後者はノートそのものに何か強い思い入れがあるように思えないだろうか。というかそうとしか思えないか。

音声にするとどちらも「サイゴ」だけど、漢字で見るとまったく意味が違ってくるんだよね。

※※※
もちろん、単純に誤変換しているときもあるだろうけどねー。

わかっていなくても同じになる不思議

投稿日:2008年09月24日(水)

小説とはなんぞや、と頻繁に口にするわりには、書いた文章はみなどこかで見たようなものになってしまう。

小説がいったいどういうものなのかわからないそぶりをしているのに、書こうとすると、無意識なのかも知れないが自分のなかにある「小説とはこういうもの」というガイドに忠実に従ったものになる。単にオリジナリティといった相対的な問題ではなく、自分のなかにある文章を生み出す根幹が機械化にも近い無機的な作用の連鎖になっているという重大な事実だ。

機械化なんて言葉を安易に使ってしまったが、つまりは、ある現象を見てそこから引き出される言葉が、ある程度の条件で分岐するとはしても、用意されたルールに基づく有限の選択肢からの選択にすぎないということだ。用意されたルールとは、今自分が生きている時代、社会に他ならない。広い意味でも、狭い意味でも、だ。それを自覚できるのは過去をふり返ったときか、自分が属していたコミュニティから外れたときぐらいのものだろう。そのときになってはじめて、自分が奇妙な思い込みにとらわれていたことに気づくのだ。

もちろん、型を身につけるということは大事だ。型を破るためには型を身につける必要がある、なんていう言葉はもう何億回も言われた常套句になっている。しかも、警句であるはずなのにどこか甘い匂いに充ちている。そうですよね、まずは型を身につけないとなりませんよね、やれやれ、しかたないなあ、それでは小説の型を身につけることとしましょう、さあ、小説のパターンを勉強するぞ! 

独創性の追求を放棄するにはこれほど都合のよい言葉はないだろう。

ところが、だ。こんなことは誰でも思いつく。あなたも、普段から気づいているし考えている。実際に、小説家志望の方々の日記などを見ていると同じ悩みを持っていることがよくわかる。大多数から抽んでるための思考がすでに大多数に属しているという、悲しい現実を見る。向いている方向をいくら変えたって、立っている地平は同じなんだよ、と。

というわけで、ここまで書いたって、何も解決はしていないし、読者にとって有益な情報も何もない。このBlog自体、自分に対する宣言のようなものだからね。

たまにはエッチな夢も見る

投稿日:2008年09月23日(火)

ふすまを開けると、布団を敷き詰めた六畳の部屋に中学生ぐらいの少女が二人、寝ぼけ眼で座ってこちらを見上げていた。二人ともえんじ色のジャージを寝間着代わりに着ていた。二人は目をこすりながらあくびをし、無言だけれども、おはようの意思表示をした。

ここは確かに俺の部屋である。床の間には父の古いオーディオセットが無造作に置かれたままだし、俺が普段寝ている場所の足下には色あせたイエローのチェストが南を向いて立っていた。チェストの上には、なかに入りきらなかったセーターやタオルが積み上げられている。間違いなく俺の部屋なのに、どういうわけか女子中学生が二人、布団の海を泳ぐように自由気ままに寝ていたのだ。

少女の片方がえんじ色のジャージを脱ぎだした。ジャージの下は素肌だった。上半身だけ裸になった少女は黙って背中をこちらに向けている。俺はそれがすぐに朝の習慣だとわかった。すでに手には濡れたタオルを握りしめている。そのために来たのだ。俺はおもむろに少女の背に近づくと、手に持ったタオルを緩やかな曲線に沿ってゆっくりと滑らした。少女の背中はスポンジケーキのように柔らかく、甘い匂いさえ漂ってきていた。俺は少女の片腕を持ち上げると、脇の下をタオルでなで下ろした。少女の腕はもう俺の顔のすぐ横にある。そっと匂いをかいでみた。紛れもない、人間の汗の匂いがした。

もう一人の少女は俺のすぐ隣で黙って行為を見つめていた。目が合うと無言で、さあその先はどうするの、と問いかけてきているように思えた。俺はどこまで拭けばいいのだろうか。俺の中心部で熱を持った塊が徐々に膨らみ始めているのがわかった。塊の吐き出す熱い血液が、俺の腕に容赦なく流れ込んでいる。少女は隠すことなく、俺は目をそらすことなく、少女の胸がかすかな輝きを帯びながらそこに存在していた。なだらかな曲線が描きだす神聖な肉体部品と、それを有することを何者かから託された女性という存在を前に、俺は一人の礼拝者となっていた。タオルを持った手を恭しく胸の下に差し入れ軽く持ち上げてみると、少女がかすかに吐息をもらすのが聞こえた。俺はついにこれが自分自身の義務であると確信した。

布団が敷き詰められた六畳の部屋で、俺は二人の少女のすべてを、丹念に磨き上げた。



 

夢のなかの本

投稿日:2008年09月22日(月)

昨日から一睡もしていない。ぜーんぜん眠れなかった。文字通り布団の上を転げ回っていた。いつもなら酷い悪夢にうなされるはずなのに寝ることすらできなかった。

寝ていないのに、強烈な本のビジョンを見た。

確かに寝ていなかったのだから夢ではない。何度も何度も寝返りをうっていると、突然、それまでガチャガチャと騒いでいた意識の周辺が沈黙した。急激に意識が視覚の一点に集中していく。するとまぶたを閉じているはずなのに、目の前に一冊の本が現れた。本といっても絵本のようで、本全体がデフォルメされた樹のような形をしている。開かれたページは樹木の緑に縁取られ、中央には空と海が描かれている。その下には砂浜があって、そこに文字が書かれていた。

それは日本語だった。読める文字だった。意識を集中するればするほど、その文字は明瞭に見えてきた。一字一句読み取ることができる。漢字の分量が多い文章だった。その瞬間は読むことができたのだけれども、今となっては何が書いてあったのか思い出せない。「かかる思惟は」という部分だけ覚えている。人間の思考について書かれた文章だったはずだ。思い出せなくて残念。

しかし、これは仕方がないだろう。現実の世界においても、たとえばなんでもいいから本を一瞬ぱっと開いて、そのページに書いてある文章を一度読んだだけですべて暗記するなど、できないからだ。こういうとき、記憶力の悪さを悔やむ。

この記事のタイトルを「夢のなかの本」としたのは、現実的に考えれば、この体験そのものがおそらくはすでに夢のなかの出来事だからだ。そういうことにしておきたい。眠れずに覚醒している状態で、あれほど明確なビジョンを見たとしたら、俺けっこうやばいじゃん。

イメージとビジョンの違いはかなり自己流な定義だけど、イメージはふだん頭にぼんやり思い浮かべているときのそれだけど、ビジョンは実際に映像が視覚に浮かび上がる体験だ。

うーん、こういう体験の積み重ねが、凡人を教祖にしてしまうのかもしれんね。怖い。


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小瀬朧
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自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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