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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月23日(土)

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本を立って読んでみる

投稿日:2008年10月01日(水)

どこで聞いたのかさっぱり覚えていないが、ある人の書斎には椅子がなかったという。本は立ったまま読むからだ。立って読むことで集中できる、という話だったような気がする。誰の話なのかまったく覚えていないし、別に調べる気もない。

なぜこんな話を思い出したかというと、最近、本を読むとすぐに眠くなってしまうので困るからだ。読書の習慣がなかったからなのかなあ。ひどいときは1ページも読まないうちに寝てしまう。誇張ではなく、気づいたら朝ということが最近よくあるのだ。

本を読もうとしているにも関わらず眠くなるというのは、俺の脳が眠れ眠れと勝手に指令をだしているということだ。それはそれで頭に来る。抗したくなる。眠気を無視して本を読み進めようともする。そうすると今度は目の焦点が合わなくなる。頭がくらくらしてくる。身体が微妙に振動をはじめる。そこまでして俺の脳は俺に本を読ませたくないのか!

そこで立ち読みだ。部屋の中でも立って読む。これならどうだ。まさか俺の脳も、立っている状態の俺を眠らせようとはしないだろう。俺は俺に負けない。HAHAHAHA!

と思ったら、本を手にしたのはいいのだが立ち上がる気力が湧いてこない。なるほど、そうきたか。さすが俺の脳だけあってくだらないところで執念深い。意地でも読ませないつもりらしい。

とここまで書いて、もの凄く馬鹿らしくなってきたので、普通に立ち上がってみた。立ち上がってから、本を手にしてみた。オッケー。








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だから何だの先へ

投稿日:2008年10月01日(水)

朝起きてコメントの返信をしたり何か書いたりしようと思ったらBlogが朝9時までメンテナンスだった。

ところで、こういう日記形式のBlogって、普通は言葉にしないものをあえて書いているわけだよね。小説を書けない悩みだの創作のこだわりだのなんてのは誰もが持っている。それなのに自分だけが特別であるかのようにとうとうとまくしたてているさまは、人によっては不快以外のなにものでもない。思慮のある人ならこう思っているかもしれない。まずその口を閉じろ、と。

読みモノとしてのBlogを成功させるコツはまず自分を消すことだ。誰が言ったか知らない。誰も言っていないかも知れない。俺の直感にすぎないのかもしれないが、文章とはそれ自身に意味があるのであって、それを書いている人間の自己主張など読者にとってはどうでもいいのだ。書き手の自己主張が文章じゃないのかと思われるかも知れない。しかし、よくできた文章というのは必ずしも書き手の自己主張ではないと思う。自己主張が褒められるのは、おそらくは学校教育における作文だけだ。作文の読み手は先生と親ぐらいのものだろう。しかし、Blogにしても小説にしてもそこには必ず読者がいる。実在しなくてもいい。誰一人読まないのであっても、文章が文章として成立できるのは読者がいるからだ。ああ、自分でもわけがわからない。

カンタンに言ってしまえば、読者にとって書き手がどう考えているかなんてことはどうでもいいってことだ。おまえのことなんか知ったこっちゃねーよ、だね。書き手ってのは、大仰にブンガクについて悩んで見せたり、言葉の乱れを嘆いて見せたり、あの手この手で結局は自己主張したいだけだったりする。俺ら素人が素人のままでいる一番の理由は、文章に対する姿勢が、視線が、個人的な範囲を超えていないからではないだろうか。

ここで、安易に「自分」という言葉を使ったことに少し心配する。個人的なことを書いても面白い人はいるし、自分を消したら逆に個性がなくなってしまうのではないか、という声も聞こえてくる。「個性」という言葉もたちが悪いな。こういう単純で身近な言葉にこそ恐ろしいモノが潜んでいるのだから怖い。それはともかく、逃げているわけにもいかないから、俺のもてる力で真っ正面から説明してみる。たまには、がんばる。

安っぽい箴言めいた言葉を思いついた。こんなのはどうだろう。

  自分を書くのではない。自分を通して書くのだ。 

なんのこっちゃ。うまくいえねぇ。というか、いえると思っているのか、俺は。何と戦っているのだ。ああ、助けて。

ひらめいた。きた。おりてきた。こんなのはどうだろう。

たとえば、空について書くとする。俺ら素人は、空を見て美しいと思った自分を書きたがる。空を見て美しいと思える美しい自分をアピールしたいだけだ。しかし、プロは違う、と思う。空を見て美しいと思っている自分を書くことで、空の美しさを表現する。自分というのは、空の美しさを書くための道具のようなものにすぎない。

この喩えはよくないなあ。こんなのだったらどうだろう。

たとえば、社会について書くとする。俺ら素人は、社会のなかで苦しんでいる自分自身を書きたがる。こんなにも苦しんでいる自分を見てください、と。しかし、プロは違う。社会のなかで苦しむ自分を書くことによって、社会そのものを表現する。

これって、三田誠広氏の本に書いてあったことと同じな気がする。違うかも知れないけど。無意識のパクリか。

最初に戻るけれど、いくら「このBlogは日記です」と逃げを打ってあるとしても、やはりまっとうな文章として存在させるには読者について考えないとならないな。創作に関する悩みを書くことで、ただ自分のことを書きたいだけなら、それはよくないだろう。そうではなく、悩んでいる自分を通して、創作に関する「何か」を読者に伝えないとならない。それが、先に書いた「自分を消す」ってことなんだけど、俺の表現の限界だ。

寝る。



いや、寝ないけど。

「書くということの最初の鍵は考えることではなく、あくまでも書くことだ」

投稿日:2008年09月30日(火)

 これは『小説家を見つけたら』という小説に出てくる台詞です。作者はジェームズ・W・エリソンでソニー・マガジンズ文庫から発売されています。
 映画はショーン・コネリー主演なので、人気はともかく、知名度はあります。ショーン・コネリー扮する老作家と16歳の少年との交流を描いた作品で、全体的に地味な映画ですが、作家志望の向きは必見です。
 
 刮目すべきは、作品内に文章修業の場面があることです。
 
 ニューヨークの下町に住む16歳の高校生、ジャマール・ウォレスは学業もスポーツも優秀という才能に恵まれながらも、貧困により将来の進路について思い悩んでいます。ある日ジャマールは偶然にも幻の大作家、ウィリアム・フォレスターと出会います。文章を書くことに強烈な思い入れがあるジャマールは、フォレスターに文章修業を申し込むのですが……。
 
「書くんだ」
 ジャマールは老人が驚くべきスピードでキーを叩いていくのを見た。「何をしているんですか?」
「これが書くということだ。キーを押しさえすれば、君も同じようにできることだ」
 ジャマールは試し打ちをした紙を取り出して新しい紙二枚をタイプライターのプラテンにセットすると、紙の上部分に自分の名前を打ち込んだ。キーは依然として重く、指に馴染まなかった。
「まだ何も書いてないのか」フォレスターは猶予を与えなかった。
「考えているんです」
「いや、いや、それは後だ。考えるんじゃない。まずは、創造力を熱する。次に冷静に分析する。この順番が肝心だ」
 キーの上に指を飛ぶように走らせるうち、不意にフォレスターはトランス状態に入り、ジャマールはただ呆然とそれを見つめた。
 数秒後、フォレスターは頭を上げて息を吸い、そして言った。「別の言葉で言えば、第一稿はハートで書け――推敲では頭を使え、ということだ。書くということの最初の鍵は考えることではなく、あくまでも書くことだ」
 
 映画では古めかしいタイプライターを軽々と打つ老作家フォレスターと馴れないタイプライターに戸惑うジャマール少年が対照的に映し出されている面白いシーンです。
 老作家フォレスターから「書け」といわれてもジャマール少年は何を書いたらいいかわからない。何を書こうか考える。ところがフォレスターはジャマールに考えるより先に書けというのです。呆然とするジャマールの目の前で、フォレスターは凄まじい勢いでタイプライターを打ってみせます。圧倒されたジャマール少年は、書くという行為に対する、自分の今まで持っていた先入観が間違っていたと気付くわけです。
 
 良い映画なので機会あればどうぞ。
 
 
 
 


考えているだけの夢

投稿日:2008年09月30日(火)

何も見えないでただひたすら考え続けているだけの夢もある。

夢の世界にいるという感覚はなく、何かをずっと考えている状態の夢だ。夢と呼んでいいのかわからない。風邪などで熱が出た場合によく見る(見るって表現はおかしいけど)。

考えているといっても、言葉だけ、イメージだけ、その両方、あるいは複数人が討論している等何パターンかある。とくにひどい悪夢となるのは複数人が討論しているパターンで、自分のなかにいろいろな人格が入り込んで順番に意見を述べたり反論したり喧嘩したりする。ときには自称作家の人格も入り込んで、創作について何か語っていくのだが記憶に残らないのが残念だ。ただ、この状態は大変苦しい。睡眠と覚醒がポンポンと切り替わるような感覚におそわれ、頭がおかしくなりそうになる。

今朝うなされたのは白い光と黒い塊がぶつかり合うたびに何かが生まれるという夢だった。自分の上方から白い光がやってくるのだがそれを左斜め下にいる黒い塊が跳ね返す。その瞬間、感情や言葉に近い何かが生まれて、すぐに消える。何百回と繰り返される。その状態にあって自分は何かを悟りそうになるのだが、その何かが言葉にできない。

結局、何なのかまったくわからない。おそらくは睡眠中に行われるという記憶の整理だろうが、オカルトに対して切実な思いを抱く人間にとっては人生を狂わしかねない誘惑にも充ちていると思う。怖い怖い。俺はオカルトはエンターテインメントの一部として考えているから、たぶん、大丈夫だろうけど、いつまで正気でいられるかなあ。

匂いの夢

投稿日:2008年09月29日(月)

あまり上品な話じゃないけどなあ。

一般に、嗅覚の夢は少ないと言われている。夢のなかで匂いを感じることはほとんどないそうだ。たしかにあまり体験した記憶がない。しかし、まったくないわけではなく、つい先日も匂いに関する夢を見た。

下品だから簡単に書くが、夢のなかで俺は放屁する。それがもの凄く臭い。個人的な感情かもしれないが、自分の屁がもの凄く臭いというのは、うれしい。なぜかは……なぜだろう。それはともかく、夢のなかで自分の匂い(「匂」より「臭」だよなこの場合)に酔いしれている(嫌な表現だね)と、周りにいた人々が臭い臭いと文句を言う。当然だ。ただそれだけの夢を見た。

たぶん、この夢を見る前に、Blogで匂いについて書いているからその影響もあるだろう。匂いという感覚についてかなり考えていたからなあ。

ちなみに、最近面白いなと思ったのは、人間の嗅覚は味覚より敏感だということ。それも想像以上にだ。ナツメ社の『図解雑学 よくわかる脳のしくみ』に「人間の嗅覚の感度は味覚の1万倍といわれます。」と書かれていた。「数千から1万種類のにおいをかぎ分けることができ」るそうだ。嗅覚、凄いよね。

実際の匂いではなく、雰囲気や感じを表す言葉に嗅覚が関連しているものは意外と多い。「胡散臭い」「陰気くさい」「あほくさい」「うそくさい」「(男らしいという意味での)男臭い」「田舎くさい」「きな臭い」「邪魔くさい」「自慢臭い」「照れくさい」等々かなりある。

広辞苑で「くさい」をひいてみるといくつかある意味のなかにこんなのがある。

【臭い】 くさい
(4)(接尾語的に)
  (ア)…のにおいがする。「こげ―・い」
  (イ)…のように感じられる。…らしい。「仙人―・い」「バター―・い」「いんちき―・い」
  (ウ)いやになる程…だ。「てれ―・い」「面倒―・い」

(イ)と(ウ)は本当に匂いを感じているわけではないのに「~くさい」としているのが面白い。なんでなんだろうね。

 

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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


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