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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月22日(金)

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いやなメモ用紙を30秒のアレで使い切れ!

投稿日:2009年02月10日(火)

ダイソーで買ったスパイラルメモって名前のやつかな。105円で500枚という量につられて買ったけど、紙は薄いし、大きさも75ミリ四方となんだか小さいし、スパイラルなんて名前の通りわざわざねじれた積み重ねになっているしで、はっきりいって嫌いだ。

この商品の前のシリーズなんだと思うけど、105円で400枚、90ミリ四方で、紙も厚かったタイプのものはお気に入りだった。でも、近所のダイソーにはもう売っていない。

で、仕方なく買ってみたスパイラルメモを早く使い切ってしまいたくて、こんなことに使っている。

30秒ドローイングだ。

500枚のメモ用紙を30秒ドローイングに使うのだ。一枚のメモ用紙に2体ずつ描いているから、全部で1000体のポーズを描くことになる。

30秒ドローイングとは、絵の練習方法の一種だ。30秒という時間制限のなか、いろいろな人体のポーズを描ききるというルールで、これをやることによって脳が絵画モードに切り替わるというのだ。創造を司る右脳を活性化させるってやつだね。(でも右脳左脳とかいった理論って本当にそうなのかな)

もとは脳の右側で描け という本で提唱されている練習方法だ。私も15年ぐらい前に読んだ記憶がある(おっさん年ばれるぜ)。それが、最近ネットで絵の描き方を検索していたら、いたるところで「30秒ドローイング」という文字を見かけるようになって驚いた。懐かしいというより、まったく忘れていた。というか、ぜんぜん記憶にない。脳の右側で描け で今でも記憶に残っているのは「絵を逆さまにして模写する」と「対象の周りの空間を描くようにする」の二つだ。でも、旧い版にだって30秒ドローイングについて書いてあっただろうなあ。うーん。覚えてない。どうでもいいか。

その30秒ドローイングは、理屈はわかっても、じっさいにやるのはとても面倒だ。30秒という時間制限をきっちり守り、描く対象を毎回変えなければならない。やるとしたら、タイマーとデッサン人形が必須なのかな。だから、今までは30秒ドローイングを本気でやろうと思ったことはない。

ところが、インターネットってすごいよね、30秒ドローイングをするための大変便利なサイトがあったのだ。
Pose Maniacs: 絵や人体デッサンの描き方の練習用にポーズモデルをアップするサイト

こちらのサイトにはブラウザ上で動作する30秒ドローイング用のアプリがある。スタートすると画面に3Dモデリングされた人体が現われる。そして30秒できっちり違うポーズに切り替わる(時間設定は変更できる)。自分の手で時間を計ったり、ポーズを変えたりする必要がないのだ。これは大変便利で、毎日ありがたく利用させて頂いている。ああ、もう15年早くこのサイトと出会っていれば……。(ないと思います)



もともと姪のために絵を描いてあげたくてはじめた練習なんだけど、最近はお絵かきよりもボール遊びが好きみたい。あと、いまだにドキンちゃんがうまく描けません、うーん。

ちなみに15年ぐらい前は、漫画家になりたいなあというベタベタな発想でした。あるよねー。

で、結局、絵がぜんぜん描けないから、だったら小説がいいよねというお約束の展開でした。わーい。

おしまい。









 

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何かが誰かが降りてくる

投稿日:2009年02月10日(火)

創作に携わる人がよく「降りてきた」とか「降りてこないと書(描)けない」とかいうのを耳にする。この感覚は、私でさえ、軽く体験することがある。

キーボードに向かって、じっと構える。まだ何も書けない。待つ。ひたすら待つ。降りてくるのをただ待ち続ける。すると、いつかそれがふっと降りてきて、みるみるうちに画面が文章で埋め尽くされていく。

あれって、何なんだろうね。

昔、どこかの漫画家は「天使が降りてくるのを待つ」といっていたような気がする。ひらめきの類なんだろうけど、正体はよくわからない。

高校時代、卒業生に贈る言葉を考える委員会(なんだそれ)に選ばれたとき、日曜の朝から夕方まで、八時間近くも自分の部屋の学習机の前でじっと待っていたことがある。当時すでに、その「降りてくる」という感覚をなぜか知っていたので、そうしていたのだと思う。

果たして、それは降りてきた。

原稿用紙半分を、一気に書き上げた。ちなみに自分の割り当ては、冒頭の数行だった。ただ数行を書くために、八時間近くも待っていたのだ。

かくしてできた一世一代の大傑作(数行だけど)は担当教師の感嘆をもって受け入れられた。けれども、なにしろそのわけのわからん委員会は各クラスの代表一名、七クラスあったから全七名からなる組織だ。七人の考えた文章を組み合わせて一つの送辞を作るという名目で集まっているのだ。結果としてできあがった送辞は、おそろしくチグハグで一貫性がなく、絶望的なリズム感をもつ怪作だった。ほんとにそのままつなぎ合わせているんだもん、あれは一種の冗談だったのかもしれないと今では思う。

という奇妙な思い出がつねにつきまとっているわけだが、あの「降りてくる」感覚は忘れられない。もしかしたら、その感覚がやみつきになっているから、未練がましく小説家志望なんてやってるのかもしれないね。

『芥川龍之介』

投稿日:2009年02月09日(月)

ブログの存在を根本から揺るがすけど、たとえば、私が何を買って何を読んで何を考えたかを書いて、何になるのだろう。何にもならないと思う。

言葉を発する直前、頭のなかで「だから何」の一言を付け加えてみる。そうすれば、およそこの世の中には、語る価値があるものなんかないと気づける。

私は今日、BOOKOFFでちくま日本文学全集の『芥川龍之介』を105円で買ってきました。……だから、何?

悲しくなってくるぜ。


それはともかく、芥川龍之介は、じつはそれほど読んだことがないよなあと思う。断言しないのは、ほら芥川龍之介ぐらいになるとさ、教科書に載っていたり、図書館で読んでいたりするじゃん。読んでいなくても『蜘蛛の糸』あたりだったら、極楽から地獄にのびる一本の蜘蛛の糸とそれを上る亡者の姿というビジュアルはどこかで目にしていると思う。ちなみに、中学のとき『杜子春』の演劇を見た覚えがある。どこかの劇団が学校を巡回しているってやつかな。あれ、小学校だったかなあ。

で、今回手に入れた『芥川龍之介』には『杜子春』は収録されている。でも『蜘蛛の糸』は入っていない。

個人的に好きなのは『トロッコ』だ。主人公の少年が興味半分にトロッコを押す手伝いをしたら、とんでもなく遠いところまで来てしまって、泣きながら家まで走って帰るというような話だったと思う。うまく言えないけど、自分自身が大人になるまでの間に積み重ねてきた無数の経験は、すべてこの『トロッコ』に重なるような気がするんだ。どんな気分っていうのかなあ。(そのときの)世界の果てまで行って帰ってくるという気分か。保育園に通っているころの、私の世界の果ては農協だった。農協の建物の向こう側には、絶対に行くことがないと思っていた未知の世界があった。すぐ近くなんだけどね。歩いて10分もかからない。もっと小さいころは、きっと家の門が世界の果てだっただろう。もっと前は部屋の扉、もっともっと前は、ベビーベッドだったかもね。

話が変わるけど、以前、瞑想をしていたらかなり深みにはまって、なんだか誕生の瞬間のようなヴィジョンを見たことがある。誕生といっても、産道云々の生々しい肉体的な話じゃなくて、自分がこの世界に発生した瞬間かな。強烈な光が見え、誰か女性の声が聞えてきた。

話がまた変わるけど、ビジョンといえば、最近は夜中になると、怖ろしい形相の人々が現われて私を苦しめる。もちろん、脳の錯覚だから害はないのだろうけど、血まみれで頬の肉がはがれ落ちた女性の顔を何回も見るとげんなりしてくる。拳銃を片手に、毎晩頭を吹き飛ばして見せてくる男性も、もう出てこなくていいよ。誰なのさ。

先日なんか、誰かが私の上にのっかているんだ(もちろん脳の錯覚な)。顔を見ると、お母様で、いよいよ私を殺しにきたらしいと察した。どけよ母ちゃん、許してくれよ、あっちいけよ、と大声を出そうとしたんだけど、まあ幻覚だとわかっているから、放置した。

しかし、あれだねえ。自分の体験を語るってのはこのうえなく陳腐になるよね。何が世界の果てだ、何がヴィジョンだ、と。悲しくなるぜ。

とかなんとかいいつつ、今『トロッコ』を読み終わった(ブログを書きながら読んでいました、器用な真似です)。記憶よりずっと短い話で驚いた。壮大な話だと思ったのに、じつにあっけなかった。





 

小説のリズム?

投稿日:2009年02月09日(月)

語彙と表現を増やそうかと思い、ぜんぜん好きでもない作家の小説からフレーズをノートに書き写していた。それがここ一週間の話。

なぜ好きでもない作家の小説を選んだかというと、語彙と表現を偏らせないためだ。そう考えた。好きな作家の作品なら、何度も読んでいるし、気に入ったフレーズはどんどん真似して使っているから、あえてやる必要はない。でも、そのままだと言葉選びや言い回しが好きな作家にあからまさに似てしまう。だから、ぜんぜんまったくこれっぽっちも好きでない作家の小説を選んだ。(そうはいっても、家にあるぐらいだから、嫌いというわけではないだろうね)

ノートにフレーズを書き写すといっても、自分の場合はまだ基本的な言葉ばかり。「振り向く」とか「~から…のなかを覗く」とか「ひっくり返る」とか「声を荒らげる」とか「腰に手をあてる」とか、そういうレベルの話だ。

冗談ではないよ。

これは単に言葉の言いかえの問題ではなく、人間の動作や風景の在り方を言語化するために必要な準備なのだ。頭のなかにはイメージが浮かんでいる、でも、それを言葉で言い表せない、というもどかしさを克服したいということでもある。

さっきあげた言葉だって、読めばおそろしく簡単だけど、自分が小説を書くときにその言葉がスムーズに出てくるとは限らないのだ。

というようなことを、わりと夢中でやっていた。

ところがだ。

そんなことをしていたからなのか、自分の文章のリズムがおかしくなってしまったのだ。客観的に判断できるかわからないが、書いている本人としては、なんだかすごく気持ち悪い。

で、文章のリズムが変わると、小説全体のリズムまでなんだかおかしくなる。リズムってなんだよ、と言われても、自分にだってよくわからないけど、とにかく気持ち悪い。

それで思った。

小説は文章から成り立っている。構成している個々の文章によって、小説の展開まで変化してしまう。そんな気がしてならない。極端な例を考えてみるなら、ドロドロと暗い文章で書いていれば、小説のストーリーだってドロドロと暗いものになっていくように思える。暗いストーリーだから暗い文章になるのではなく、暗い文章だから暗いストーリーになっていくこともあるのではないか、という仮定なのだ。もちろん、今あげた「暗い」というのは極端な例だ。現実に即して考えれば、文章から感じられるインテリ臭や負け犬根性や僻みや妬みなんかが、そのまま小説全体の流れまで支配してしまうということだ。プロの作家なら内容に合わせて文章を変えているのかもしれないけれども、素人にすぎない自分にとっては、たぶん、文章によって小説の内容が変わってしまう。

というわけなので、しばらくの間は、このことを考えてみる。








 

USBメモリが届いた

投稿日:2009年02月08日(日)

通販で買っちゃった。

激安メモリで有名な上海問屋で購入。USBメモリが4GBで、送料入れても、1000円以下だった。すげぇ安い。バルク品だからパッケージはないけど、別に関係ないからいいよね。

4GBっすよ、4GB。

近所のホームセンターでも、4GBが2000円、2GBが1000円ぐらいで売っているけど、4GBの大容量が1000円以下で買えるところはまだない。

今まで仕事で使っていたUSBメモリは32MBだ。家と会社の間でデータの持ち運びに重宝してた。いつだったかもう忘れたけど、仕事で秋葉原にいったとき、1980円で売っていて「32MBが1980円ってめちゃくちゃ安いジャン」と喜んで買ったのにね。

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小瀬朧
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