投稿日:2008年04月12日(土)
小説家になりたいなどといいながら、自分の読書量が圧倒的に少ないことをいまさら悔やんでいる。それがこのBlogの原動力にもなっている。もちろん、闇雲に大量の本を読めば、これまた勝手に小説が書けるようになるわけでないことぐらいは承知している。最初は書けるようになるんじゃないかなと思っていたけどね。
ブックオフで105円の本を買い漁る日々が続いている。105円といっても、バイトもしないでニートを満喫している俺には高額だ。誇張ではない。すでに金銭の余裕がなくなってきている。そうなると、ただで本を読めないかと考えだす。インターネットなら青空文庫でかなりの分量が読める。芥川龍之介が好きでかなりお世話になっている。あまり気乗りはしないが名作だから読んでおけといわれた作品に目を通すのにも便利だ。しかし、パソコンのモニタで文章を読み続けるのはかなりつらい。目がつらい。短編を読む分にはいいが、ドグラ・マグラぐらいの長編になると目だけではなく頭まで痛くなる。それと、青空文庫で読むということは、当たり前だが最初から最後までモニタと向き合っていないとならない。文庫本を鼻糞をほじりながら寝ころんで読むようなリラックスには程遠いと思う。だからあまり好きではない。だったら図書館に行けばいいという話になる。
図書館といえば学校を連想する。ゆとりある俺はつい最近まで図書館そのものが独立して存在していることを知らなかった。それはさすがに大げさだが、たしかに町の図書館を意識したことはない。町役場の北に昔からあったのに視界に入ってこなかった。人間の目は興味のないものは排除して脳に届かないようにしてくれるらしい。だから、図書館といえば学校にある、あの空間のことを思い出すのだ。とくに小学校である。ここでやっと記事タイトルにつながる。図書館を部屋ではなく空間と書いたのは理由がある。俺の通っていた小学校は教育に対して先進であろうとしていたらしく、一般的な「小学校」のイメージとは違う部分が多かった。ちょうど新設されたばかりだったから、建物じたいに工夫が見られた。その一つとして、図書館の壁がなかった。校舎の中央部にある多目的ホールから、廊下をはさんでいきなり本棚が並びだす。だから図書「館」でも図書「室」でもない。あやふやな記憶だが、「図書館を特別な場所と考えず気軽に入って欲しい」というような意図があったと思う。ただ、じっさいはほぼ強制的に本を読まされたんだけどね。
こうやって書いているといろいろ思い出す。そうだ、読書の時間があった。国語や算数のように。時間割にも「読書」(「図書」だったかなあ)があったはずだ。その時間になると、あの本がある空間へクラス全員で列を作って向かう。そこで一時限たっぷりと本を読まされるわけである。さらに、必ず一冊借りていかないとならない。そうだ、借りた本は次の読書の時間に返すんだったな。そういう仕組みだった。単純に計算しても、一年間に百冊以上は読んでいるはずだ。うーん。ほとんど記憶にない。とはいっても、小学生向けの本ばかりだから、そんなにたいした分量でもないのかな。それに、「まんが日本の歴史」みたいなのが人気だったと思う。あとは子どもだから絵本や図鑑とかで適当にごまかしていたような気もする。
書いているうちにとりとめもなくいろいろ思い出してきた。またまとまってから記事にしよう。
PR