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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月21日(木)

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たぶん終わる日

投稿日:2008年11月24日(月)

カーテンも開けない薄暗い部屋に毎日いると
きっとここで自分は死んでいくのだなと思うようになる

蛍光灯の光は緑がかっている
くしゃみ一つで部屋の空気は激しく対流する
時計の針の音は片足を怪我した人の歩くリズムと同じ

そんなことに気づけるようになったある日
ちょっとだけ外に出てみようかと思った

こんな部屋のなかにいたらきっと私は死んでしまう
生きるために外に出よう

そう考えた

建て付けの悪い玄関を舌打ちしながら開けると
外にはわざとらしい青空が広がっていた

なんで空は青いのだろう
昔からこんなに鮮やかな色だっただろうか

ふり返ると 三分の一ほど廃屋になりかけた我が家があった
私が今までいた場所は恐ろしくちっぽけだ

風がかすかに吹いている
名前の知らない鳥がどこかで啼いている
庭に落ち葉が積もっている
隣の家の銀杏がまだ黄色い葉を少し残している
遠くの山がうっすらと白い

季節は今も巡っている
私は苦しいのに

生きるために外に出たけれども

得られたのは
自分を終わらせる勇気だった





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ある気配

投稿日:2008年10月30日(木)

過去の自作を眺めていて、背筋が寒くなった。

今、自分はヒキコモリニート状態なのだが、それは過去のある日の事件がきっかけでそうなっている。その内容は書けないのだが、社会から抹殺されても仕方のない出来事だった。たぶん、誰も同情しない。

それはともかく、過去の自作で気になるものがあった。作成した日付を見た。その事件の半年ほど前に書かれているのがわかった。

こんなの。
 

昔人が死んだ場所に花が咲き家が建つ

昔ゴミの不法投棄場所
今は子供たちが遊ぶ公園

昔小学生が溺れ死んだ用水路に
かわいい金魚が数え切れない

昔わたしの犬が轢き殺された道路に
知らない犬の轢死体

昔世界の果てだったはずの交差点を
今日も車で通り過ぎる

昔果樹園だった場所は今も当然のように果樹園で
どこか知らないところから来た観光客の笑い声

昔生きていた自分は当然のように今も生きていて

だけど未来におびえている
 





もうひとつある。


クリエイターЯ は
世界を美しくするために
美しいものをたくさん創り
醜いものを壊していった

クリエイターε は
世界を美しくするために
美しいものを壊した

庭で草むしりする仮定された世界のわたしは
雑草を殺さずバラやチューリップやタンポポその他もろもろの花を殺した

さらに遠く仮定された世界のわたしは
正義を唱えるものを殺し
秩序そのものやそれを守ろうとするものも殺した

モニターの前でキーボードを打つ実世界のわたしは
それでも何も変えられず
むしろ自分が消される側の人間であることに気付き
それを否定したいがため
今こうやって文字を並べ
眺めている
 



巧拙はともかく、自分はこの詩のもとになるものをどこに見ていたか。何を見ていたか。あるいは、これから何を成そうとしていたのか。

この二つは、リライトする気になればそれなりにできるのだが、手をつけるのが怖い。

もし、これを書いたときに、本当に(というのも無理だけど)自分自身を眺める目を持っていたなら、終わりはこなかったかもしれない。自分自身が鳴らしていた警鐘に気づいていたら……と他人事のようにいま書けるが。

捨てたものに価値があるのかもしれない

投稿日:2008年10月29日(水)

昔の詩を見返しているが、大量にあるわりには、ほとんどが使い物にならない。使い物にならないというのは、すなわち心に届かないということだ。推敲やリライトでどうにかできるレベルの話ではない。詩が表現するべきもの、それ自体が欠落しているのだ。形骸という言葉を使うのは、まさに今だろうな。

それを書いたときには、たしかに何かを感じていたのは違いない。しかし、それを言葉にする過程において、肝心の書くべきことを捨て去ってしまっている。つまり、自分の書いた詩は抽象的すぎるということだ。

たとえばこんなものがある。
何も見ないということは
何かを見ていることにちがいなかった
二行だけの作品だ。抽象的であるということは、都合の良い捉え方をすれば、誰が読んでもそれなりに何かを思い浮かべてくれるということだ。何を感じるかは完全に読み手に委ねられる。もしこれが読み手の心情に合致するならば、作者の意図を越えた好意的な解釈も期待できる。

しかし、ここに作者の精神はない。というより、詩として成り立っていない。なぜなら、私でなくてもいい、誰にでも言えることだからだ。

例に挙げた詩に限らず、詩を書くきっかけになった情況や心境が必ずある。それは紛れもない現実であり、具体だったはずだ。あるいは夢や空想が元になっている可能性もあるが、それだって自分自身が目にしたという意味では現実だ。自分だけの体験であるのは間違いない。

そのせっかくの自分だけの体験を構成する要素をすべて捨ててしまう、すなわち抽象化してしまうのは、詩としては間違っているのではないか。そう考えながらプロの作品を分析すると、詩とは恐ろしいほどに生々しいものであると気づく。それに比べたら自分の書く詩は無味無臭だ。何も伝わらない。

もちろん、プロの詩人が書く詩の生々しさがリアルであるとは限らない。虚構が持つ現実性かもしれない。リアルに対するリアリティの関係。しかし、私の詩にはその両方、リアルもリアリティもない。

そんなわけで、またゴミ箱を漁る日が続くわけなのだが、困ったことに本当のゴミ箱というのは目に見えないらしく、どこにあるのかわからない。







カレーより軽い命

投稿日:2008年10月29日(水)

うまいカレーが食いたかったとき
一日じゅうネット検索したり
タウンページをめくったりした

自ら命を絶とうとする人間を見かけたとき
30分ぐらい考えてから
生きる価値を諭す言葉を与えた

食欲を満たすためのカップラーメンは 3分
この国の未来を問う街頭インタビューは 30秒

はじめに考えたのは 5年と3ヶ月前
ここに書いた時間は 12分











 

夜中のノートはおかしい

投稿日:2008年10月27日(月)

枕元にノートを置いている。夜中に思い浮かんだことを書きとめるためだ。

朝、起きてノートを見ると、何か書いてある。もちろん、自分で書いたのは間違いないし、書いたこともうっすら覚えている。

詩にするつもりの断片だろう。こう書いてある。
長い冬は終わった
けれども春はもうやって来ない
ぼくらは氷の海岸を歩きながら
雲の隙間の向こうを眺めていた
そこに青空はなかった かわりに宇宙があった
宇宙の明るさだけが この星を照らしていた
太陽はもう昇らないのだから
この星にはりついた氷は
ぼくらが一枚一枚はがしていく

これが何の暗喩だったのか、書いた本人がほとんど覚えていない。何か夢を見たような気もするが、記憶がはっきりしない。夜中に目を覚まし、ナツメ球の灯りを頼りに書き殴った。

ぼくら、というのに俺は含まれていない。ぼんやりとそれを思い出した。そうなると、星が俺自身を喩えているのか。不完全すぎる。



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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


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