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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月21日(木)

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捨てたものに価値があるのかもしれない

投稿日:2008年10月29日(水)

昔の詩を見返しているが、大量にあるわりには、ほとんどが使い物にならない。使い物にならないというのは、すなわち心に届かないということだ。推敲やリライトでどうにかできるレベルの話ではない。詩が表現するべきもの、それ自体が欠落しているのだ。形骸という言葉を使うのは、まさに今だろうな。

それを書いたときには、たしかに何かを感じていたのは違いない。しかし、それを言葉にする過程において、肝心の書くべきことを捨て去ってしまっている。つまり、自分の書いた詩は抽象的すぎるということだ。

たとえばこんなものがある。
何も見ないということは
何かを見ていることにちがいなかった
二行だけの作品だ。抽象的であるということは、都合の良い捉え方をすれば、誰が読んでもそれなりに何かを思い浮かべてくれるということだ。何を感じるかは完全に読み手に委ねられる。もしこれが読み手の心情に合致するならば、作者の意図を越えた好意的な解釈も期待できる。

しかし、ここに作者の精神はない。というより、詩として成り立っていない。なぜなら、私でなくてもいい、誰にでも言えることだからだ。

例に挙げた詩に限らず、詩を書くきっかけになった情況や心境が必ずある。それは紛れもない現実であり、具体だったはずだ。あるいは夢や空想が元になっている可能性もあるが、それだって自分自身が目にしたという意味では現実だ。自分だけの体験であるのは間違いない。

そのせっかくの自分だけの体験を構成する要素をすべて捨ててしまう、すなわち抽象化してしまうのは、詩としては間違っているのではないか。そう考えながらプロの作品を分析すると、詩とは恐ろしいほどに生々しいものであると気づく。それに比べたら自分の書く詩は無味無臭だ。何も伝わらない。

もちろん、プロの詩人が書く詩の生々しさがリアルであるとは限らない。虚構が持つ現実性かもしれない。リアルに対するリアリティの関係。しかし、私の詩にはその両方、リアルもリアリティもない。

そんなわけで、またゴミ箱を漁る日が続くわけなのだが、困ったことに本当のゴミ箱というのは目に見えないらしく、どこにあるのかわからない。







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無題

詩人、中原中也の詩『汚れちまった悲しみ』をはじめて見たときに、こう思ったものです。
 「こいつ化け物だ」と。
いとも簡単に、人の心を打つような言葉を並べていたからです。
 「化け物だ」という言葉には腹立ちの意味もあります。これは嫉妬というのでしょうか。何の精神的な所作なしに、生み出したかのように思えたのです。しかし、町田康という作家が出演していたテレビを見て、考えが変わりました。
 それは中原中也の生い立ちから紹介していた番組だったのですが、彼がいかに生に苦しみ、それを詩に表現していたかを主張していました。
 決して、いとも簡単に言葉を並べていたのではなかったのです。
 「化け物だ」と思った私自信の心を恥じました。
しかし、人の心を打つ詩とはどういうものなのでしょうか。何が書いてあれば、それを詩と言えるのでしょうか。
 「詩が表現すべきもの、それ自体」とは。
 ある人は、その人の経験や生だと言います。
 
 自分が詩を読む立場に立った場合、次ぎのようなことを作者求めます。「断片」「手がかり」ですね。詩を読む人間は、ふつうの人間よりも想像力が豊かです。豊かというよりは、過多なのかもしれませんけど、そういう人間に対しては、10のうち1や2で良いのかも知れません。それが、「小説」との違いでしょうか。
 抽象的なことばの次ぎに、テーブルやペンなどのごく身近なオブジェクトが並んでいると安心できます。その詩に親しみがわき、作品に寄りかかることができるのです。
 「汚れちまった悲しみ」の中でも、小雪や狐の皮衣。もちろん、後者は身近ではありませんが、容易に想像はできます。そういうことで、作品が立体的に見えてくるのだと思います。
 P.s
偉そうなことを書きましたが、今の私は詩を書くことはできません。10のうちの1や2では、作者の方が満足できないからです。自己主張の権化となってしまっては詩など作れるものではありません。詩と小説の両立はどうやら難しいようです。

>>uenoさん

uenoさんこんにちは!

uenoさんも詩をお書きになるのでこういう話ができるのですが、詩とは、実作においては恐ろしいほどに作為の塊なのです。いかに自分の詩人としての目が天性のものであり、純粋であり、より真理に近いものであるかを「演出」するのに腐心します。作為を隠すための作為とも言える。あるいは、実作の苦しみを告白すること、それさえもが詩作の一環である可能性も否定できません。
中原中也の場合はダダイスムに傾倒していたという事実もありますので、つまりは、ダダではない普通の詩では、自らの作為と日夜格闘していたのではないでしょうか。ちなみに私もダダイスムと、ブルトンのシュルレアリスムに傾倒していた時期があります。しかし、書かれたものはただのデタラメにしかなりませんでしたので、建前の裏に隠された現実はよくわかります。

個人的な趣味になるのですが、私が衝撃を受けた詩人は伊藤比呂美です。伊藤比呂美の詩を読んだ後、本気で熱にうなされたような気分になりました。現代詩に対する甘い認識が一気に崩壊しました。彼女は詩のなかで自身の赤ん坊を何度も殺します。それはもちろんフィクションであるのは間違いありませんが、同時に、どうしようもないぐらいの現実でもあります。今回の文章で本当は伊藤比呂美の詩を引用しようかと思ったのですが、あまりにも私のスタンスとかけ離れているため、ちゅうちょしました。
詩人である伊藤比呂美に感じる匂いは、私淑する小説家、花村萬月先生のそれと同系統かもしれません。私の好きな匂い。

そのわりには、私の書く文章も詩も、やはり常に核心を避けるがごとくぼんやりとして曖昧で当たり障りがなくて、「凡」です。
まさに、創作する自分の「地平」を実感するに至っています。


※追記
uenoさんの追記には、私もまったく同感します。両立は、難しい。


※※さらに追記
今回頂いたコメントでドキリとしたのですが、以前大量に本を処分したはずなのに、中原中也の全詩歌集は埃だらけのまま本棚に残っていました。
uenoさんのコメントのおかげで、中原中也は埃を払われ、私の手のなかにいまあります。

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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