投稿日:2024年11月24日(日)
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投稿日:2008年04月14日(月)
何かスイッチが入ったのか、俺は今ちょっとした文章を書いている。ここであえて「小説」とは書かないところに逃げの精神が見え隠れしている。とにかく、書きたくなったから書いている。どういう心境の変化なのか、自分でもよくわからない。というか、自分のことだからわからない。まあ、先人の教えは都合よく解釈するとして、なんでもいいから書くことに意味があるんだと自己暗示をかけてみる。投稿日:2008年04月12日(土)
小説家になりたいなどといいながら、自分の読書量が圧倒的に少ないことをいまさら悔やんでいる。それがこのBlogの原動力にもなっている。もちろん、闇雲に大量の本を読めば、これまた勝手に小説が書けるようになるわけでないことぐらいは承知している。最初は書けるようになるんじゃないかなと思っていたけどね。投稿日:2008年04月11日(金)
小説を書くどころかまともな日本語の文章を書くことすら怪しい俺は、当然のように、文章上達の秘密を探るためにいろいろな指南本の類を読んでいる。指南本を何十冊か読めば何もせず自動的に文章がうまくなるだろうという甘い考えはもちろんない。それは先に書いておく。そこまで馬鹿ではない。しかし、じっさいはやっぱり馬鹿なのだから、偉い人の教えに泣きつくしかない。馬鹿というと卑下のしすぎて逆に鼻に付くから、凡人と言い換えておくか。生まれながらに才がある(ように装える)人がうらやましい。
「三多の法」という言葉が樺島忠夫『文章構成法』に出てきた。これは文章上達法としてよく引用されるという。調べると「三多」は広辞苑にも載っている。有名な言葉だった。ゆとりある俺は今ごろようやく知ることができたわけだ。その「三多」とは次の三つを指す。
看多 多く読むこと
做多 多く書くこと (「さた」と読むらしい)
商量多 多く考え工夫すること
別段変わった方法ではない。当たり前のようにいわれていることか。当初、俺は多読やとにかく書けの精神に生意気にも懐疑心をもっていた。まどろっこしいことをしなくても、今の世の中なら先人の知恵を抽出した何か画期的な文章上達法があるのではないかという実にありがちな期待を抱いていた。もちろん、怠惰と言い換えたほうがより適切なのは認める。そんな俺でさえ、結局は多く読み多く書くことが大切なんだなあと反省気味に思えるようになったのだから、この「三多の法」はまことの道理に近いものなのだろう。最初から鵜呑みにするのと、俺のように身をもって知るのでは意味が違うと思うけどね。
世にあふれる(これが本当にあふれるほどあるから困る)指南本は、つまりはこの「三多」をより深く考察したりアレンジを加えたりしているものがほとんどなのだ。すなわち、看多なら誰のどの作品をどういうふうに読めばいいのか、做多ならどのような心構えで何に注意して書けばいいのか、商量多ならどこをどう推敲していけばいいかあるいはアイデアを出すにはどういう考え方をするべきかということを、それぞれの著者がオリジナルの言葉で読者に伝えようとしている。だから、奇抜な文章上達法を求めて本屋やインターネット上をさまよい歩いても、文字通り徒労に終わる。
しかし、すべての文章指南本が同じ「三多」の精神に則っているわけでもない。必ずしも多読が必要ではないという意見もないわけではない。ただ、最近は逆にそういう本に対して自分が懐疑的になってしまっている。これを俺自身の成長と見るか単に利口ぶりたいだけの迎合と見るかは、よくわからないけど。
投稿日:2008年04月10日(木)
読み終えた。これはいい。
『怪談の学校』で必読とされていた都筑道夫氏の『ミステリイ指南』を読み、氏の怪奇小説論に感化され、初めて購入した短編集が『25階の窓』だ。タイトルのチョイスはたまたまブックオフにこれしかなかったからにすぎない。もっと他の作品も読みたいのでまた探しに行く。
『25階の窓』とは25の短編が収められているという意味だった。タイトルの下には「都筑道夫モダンホラー・コレクション」と書かれている。モダンホラーという言葉は今の感覚だとなんだか古臭く、気恥ずかしさもある。作品の内容は時代背景のせいでどこか懐かしい空気を感じるけどなかなか面白い。さすがに、ホラー・怪奇小説を読んで夜も眠れなくなるという年齢ではないし、小説を書くための読書として物語の構成やら表現方法やらに目を光らせているから、恐怖を味わうという本来の意味での楽しみ方はできていないかもしれない。それでも、読後に妙な不安感が残ったり、なんだか釈然としない気持ちがあとをひいたりしているのだから、都筑道夫氏の筆力には素直に驚ける。同時に、今まで読まなかったのを非常に悔やむ。
物語の中ですべてが完結するのではなく、読み終えた後、読者が現実世界に帰ってきてからも何かが心にひっかかっていたり、漠然とした不安がどこか付きまとっていたりする、そういう感覚が残るものが怪奇小説、怪談としては優秀ではないかと俺は勝手に考えている(『怪談の学校』か『ミステリイ指南』の受け売りかもしれんけど)。しかし、読者によっては「え、けっきょく何なの」「オチはないの」「説明不足じゃないの」という感想を抱くかもしれない。かくいう俺も何がおこったのかよくわからず、「阿蘭陀すてれん」と「かくれんぼ」を数回読み直してしまった。実に不思議な作品だった。こういう小説を自分でも書いてみたいものだ。
投稿日:2008年04月10日(木)
「小説家志望」のカテゴリがあった。こういうのって、Blogをはじめたら登録するものなのかな。よくわからないけど一応参加してみた。竹の子書房
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