忍者ブログ

ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

[PR]

投稿日:2024年11月23日(土)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

さよなら本屋

投稿日:2008年10月05日(日)

遠いけれども品揃えが自分好みだった本屋が模様替えした。もう行かない。

クルマで30分はかかるその本屋は地元の他の店にはないようなタイトルの本がけっこうあった。今の時代、よほどの大型書店でない限り、置かれる本の種類は無難なベストセラーやメジャーな出版社のものばかりだというのに、その店にはかなりマイナーな分野までいろいろなタイトルがあった。だから、この本屋で初めて知った本も多い。

しかし、今日その本屋に行ったら、それらの本がきれいさっぱり撤去されていた。一冊も残っていない。あるのはどこの本屋にも置いてあるタイトルばかりだ。もうわざわざ行く意味がない。

残念なのは、Amazonその他のネット書店で全滅していたある本を、前回最後に行ったときに買っておかなかったことだ。行くたびに立ち読みしていた。ああ、なんてこったい。

あーあ。
あーあ。
あーあ。


 

PR

谷川俊太郎『定義』

投稿日:2008年10月05日(日)

小説家志望のBlogで、谷川俊太郎の詩集がいったいどういう役に立つのかよくわからないところだが個人的に好きだし、とくにこの『定義』は言葉についてある核心にせまるものがあると考えているから紹介している。とかいいつつ、じつは売ってしまったと思っていたのにこの一冊だけ残っていただけだったりする。

この詩集はとくにいい。『定義』内の作品で有名なのは「メートル原器に関する引用」だと思う。この詩は百科事典からの引用だけで成り立っているという奇妙なものだ。最終行「*平凡社刊・世界大百科事典による」の言葉によって、全体が引用であることに気づく。そこに作者の言葉は一切入っていない。実際に平凡社の世界大百科事典で「メートル原器」をひいてみると、たしかに「メートル原器に関する引用」と同じ文面が見つかるのだが、全文が引用されているわけではないことにも気づく。解説文の前半部分と後半部分が「メートル原器に関する引用」では省略されているのだ。つまり、この詩のなかに作者の言葉はないが、どの部分を引用するかという意思はあるということだ。初めてそれを知ったときは身震いした。

有名なそれは置いといて、『定義』のなかでは他に「世の終りのための細部」「風景画は額縁から流出するだろうか」あたりが好きで好きでたまらない。よくそれを真似して詩を作ってみたりもしていた。

この『定義』を、今朝、部屋の片隅から発掘したことに、何か啓示めいたものを感じずにはいられない。その正体はおそらく自分の無意識が、記憶の底からこの『定義』を掘り起こしたのだと思う。また、数年前、一気に本を売り払ったときに、この『定義』を売らずに残していたのも当時の無意識がそうさせたことなのかもしれない。もちろん、そういう「意味」を与えているのは、今の自分であるのだけれども。

今日は教室を出て詩を作ろう

投稿日:2008年10月04日(土)

そうは言っても「詩」がなんであるのか、小学生の俺にはわからない。

国語の時間なのに教室の外に出るというのは奇妙な雰囲気に充ちている。ノートと筆箱を抱え、廊下を歩きながら、もし他の先生に「授業中だぞ」と怒られたらどう説明すればいいのか少しだけ神経を痛めた。だから、校舎から逃げ出すように校庭に出た。

校庭に出たからといって「詩」が書けるわけがない。だって、「詩」が何なのかわかっていないのだから。だから国語の時間は嫌いだ。何をしたらいいのかさっぱりわからない。

それでも、なんとか考えた。今でも記憶に残っているそのときの「詩」はこれだ。
時計は人の顔 時計の針はひげ
 
しばふは緑のじゅうたん ねっころがりたい

微笑ましいと、思う。可愛いと、思う。さすが小学生の俺。

で、これには嫌な思い出がくっついている。この「詩」のつもりのものを同じクラスのトモヤが見て「ばーかばーか、時計が人の顔なわけないだろ」とか「しばふにねっころがってくればいいじゃん」とか冷やかすのだ。もうすっかり「詩」も国語も嫌いになってしまった。それにしても、なぜ俺は昔から馬鹿にされるために生きているのだろう。まあ、いいけどさ。

さてここからは空想だ。もしこのときに戻れるとしたら、俺はこの詩をこう組み替えてやる。どうせ馬鹿にされるなら、ちょっと皆を驚かせてやろう。

人の顔は時計 見えない針がいつも くるくると回っている


じゅうたんがしばふの上でねころんでいる おうちにだれもいないから


トモヤはもっと笑うだろうが、先生だけが密かに俺のやばさに気づくだろう。






ダイソー『難読語辞典』

投稿日:2008年10月04日(土)

100円ショップのダイソーで買ってきた。ダイソーも最近は100円じゃない商品が増えてきたけど、このミニ辞典シリーズはあいかわらず100円だ。

『難読語辞典』は表紙に「日常生活で目にする読みの難しい語、読み誤りやすい語を収録。難読の地名も網羅。」と書かれている。なかを開いてみると、確かに小難しい読み方の言葉がアイウエオ順に並んでいる。

アイウエオ順に、だ。

読み方の難しい言葉が、アイウエオ順に並んでいるのだ。あれあれ。たとえば「日常生活」で「襤褸」という言葉を目にしたとしよう。読み方わからないなあ、そうだ、今こそダイソーで買った『難読語辞典』で調べよう、と思って開いてみる。あれあれ。どうやって調べるんだこれ。

つまりこの『難読語辞典』は、難しい言葉の読み方を調べるのではなく、暇なときにでも眺めて難しい言葉を覚えてくださいな、ということだ。100円に文句言っちゃあいけない。俺はこういう脱力感、好きだ。

ちなみにさっきの「襤褸」は「らんる」という言葉だ。意味はぼろぼろの服かな。ためしにYahoo!辞書にこの漢字をコピペしてみると「らんる」じゃなくて「ぼろ」が出てくる。襤褸は「ぼろ」とも読むのか。へぇ。




 

『感動の幾何学』購入

投稿日:2008年10月03日(金)

探せばあるものだね。

大熊昭信『感動の幾何学』を入手した。さすがに105円というわけにはいかなかったけどね。コメント欄でこのタイトルを見たときに惹かれた。

普通、読書というものは連鎖している。ある本を読み、その本がまた別の本を呼ぶ。それは著者の繋がりだったり思想の繋がりだったり、あるいは単純にジャンルの繋がりだったりもする。そういう意味では、本の選択が個人的である限り、その人の傾向が現れるのは当然だ。ようするに、読む本と読まない本が出てくる。多読だの乱読だの言っても、完全にランダムな本の選択はきわめて難しいのだ。

だから、他の人の読書の連鎖をふいに目にしたりすると、それが驚くほど新鮮に見えたりもする。さらに、自分が求める<道>のようなものと合致したとき、驚きは欲求へと昇華する。自分も読みたい、と。

創作において「感動とは何か」とは誰もが考えることだ。自分が創作する側に回ったとき、つかみ所はないのに、たしかにそこに存在する<感動の装置>を、自分の手でくみ上げてみたいと切望する。だから、この『感動の幾何学』という題名には期待するしかないわけだ。

話はそれるが「感動」という概念もじつに多様だ。不用意に使えば誤解を招きかねない。「感動」という言葉の、あなたのなかでの意味と、俺のなかでの意味と、この本で意味するものが、必ずしも同じとは限らないのだ。まあ、だからこそ読んでみようとも思うのだけれどもね。


※※※
追記というか、今、気づいた。これ『感動の幾何学 I』だね。1ということは2もあるのか。

twitter

facebook

レコメンド

人気記事

ブログランキング

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ

★ブログランキングに参加しています。

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

HN:
小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
メールでのご連絡は benzine100@gmail.こむ スパム対策なのでこむをcomにかえてください。 


バーコード

ブログ内検索

あわせて

あわせて読みたいブログパーツ

アクセス解析

忍者アナライズ

お知らせ