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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月22日(金)

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すとっぷ

投稿日:2009年04月08日(水)

おじちゃん、すとっぷ。

最近、姪がよく口にするようになった。ちなみに、今まで「おちゃん」だったのが、ようやく「おちゃん」になったのもうれしい。

でも、すとっぷ、って何よ。すとっぷ、というと、ストップのことだろうし、つまりはstopであって、止まれ、と。試しに、その場でぴたっと止まってみせたらもの凄く喜んだ。言葉が通じるのってうれしいんだよね。

姪はこんなふうに使っている。

・おじちゃん、すとっぷ、ぶーぶ、あぶないよ
 (訳:おじさま、止まってください、クルマが来るので、あぶのうございます)

・おじちゃん、ここ、すとっぷちて、すとっぷちて
 (訳:おじさま、こちらで、お止まりになってください、お止まりになってください)

前者はかなり高度じゃないか? さすが私の姪だ(親馬鹿ならぬおじ馬鹿?)。

それと、以前書いた「たっちちて」の一言で「立つ」と「座る」の両方を表わしていたという話だけど、姪はあれから言葉を覚えた。今はこう使う。

・おじちゃん、たっちちないで
 (訳:おじさま、お座りになっていただけますか)

「たっちちないで」は「座れ」ということなのだ。うーん、なるほど。「座って」という新しい言葉を覚えるのではなく、既に知っている「たっち」から派生させたということか。姪は他にも「ねんねちないで」(起き上がって)という言葉も使えるから、「ちないで」が否定の意味を持っていることに気づいているのかな。

てなわけで、今日は100円ショップの通路の床に「たっちちないで」と姪に命令され、一緒に座り込まされるところだった。中年おっさんが幼児と一緒に床に座っていたら迷惑だし、さすがにちょっと恥ずかしいので、姪を抱きかかえて店の外に逃げた。



※念のために書くけど、冗談で書いているから訳とかにつっこまんでくりょうな。
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能うかぎり

投稿日:2009年04月07日(火)

困った。読めない。

「能うかぎり」という言葉が、たまたま同時に読んでいた本に現われた。「能う」が読めないし、意味もわからない。

まず、メディアファクトリーの『怪談文芸ハンドブック 』の「はじめに」でこう使われている。
 そして第二部「怪談の歴史を知る」では、古代から現代にいたる東西怪談文芸の流れを、能うかぎり作品に即して跡づけております。

もう一冊、三島由紀夫の『文章読本 』にも出てきた。
 もう一つはオーソドックスなやり方と考えられているもので、とうてい不可能ながらも原文の持つ雰囲気、原文のもつ独特なものを十のうち一つでも、能うかぎり日本語で再現しようとする、良心的な語学者と文学の鑑賞力を豊富に深くもった語学者との結合した才能をもつ人が試みる翻訳であります。

漢字から推測すると、おそらくは「できるかぎり」という意味だろう。「能」といえば「可能」「才能」「能力」「技能」「能才」「能弁」といった言葉を思いつくのだから、たぶんあっている。

しかし、それこそ思い込みというやつかもしれないし、意味はともかく読み方がわからないので辞書をひいてみる。まずは漢語林の「能」より。
【能】ノウ
(1)あたう。できる。たえうる。
(2)よくよくす。よくする。できる。「よく」と訓読しても、多くは「あたう」と同じ意である。
(3)はたらき。ちから。才能。「有能」
(3)ききめ。「効能」
(4)才能にすぐれている。また、その人。

(後略)

「あたう」なのかな。「あたう」で広辞苑をひいてみる。
あたう【能う・適う】
(1)できる。なし得る。堪え得る。
(2)適合する。

「能うかぎり」の読み方は「あたうかぎり」で、意味は「できるかぎり」ということで間違いないかな。

かけっこ 笑って

投稿日:2009年04月07日(火)

4月6日、なんとなくチャンネルを合わせたら「深イイ話」という番組がやっていた。

人生が変わる1分間の深イイ話
http://www.ntv.co.jp/fukaii/

初めて見たんだけど、ちょうどやっていたのが「ひと言で速く走れる魔法の言葉」という話だった。

なんでも、かけっこの前に子どもへ「笑って」という言葉をかけると速く走れるというのだ。なぜだろうと思ったら、リラックスした方が歩幅が自然と広くなるからだという。実際に計測したら速くなってるし。

これを見て、愕然としたよ。

小学校以来、運動会のかけっこは大嫌いだった。どれぐらい嫌いかというと、体育がある日のずる休みは当然だったり、将来ぜったいソーリダイジンになって、走る人間はすべてシケイにするという法律を作ろうと考えたりするぐらいだ。とにかく嫌で嫌でたまらなかった。だって、いつもビリなんだもん。
(ちなみに私の父親は若いときに陸上選手として地元で名を馳せていた。つまり、父親の私に対するがっかり感は筆舌に尽しがたいだろう。おとうちゃん、ごめん)

そんな歪んだ私を嘲笑うかのように、姪はとにかく走りまくる。公園につれていくと「きゃははははは」と大笑いしながら転ぶまで走り続ける。油断すると、私の足では追いつけない。その姿を見ておじいちゃん(私の父)は途轍もなく幸せそうな顔をしている。息子である私は結果としてポンコツだったけど、孫である姪は有望だからだ。
ああ、本当、おとうちゃん、ごめん。

もしも。

もしもなんだけど、小学校時代の私に、かけっこの前、誰かが「笑って」と一言かけてくれていれば、何か変ったのだろうか。


そんな感傷。



才能の話

投稿日:2009年04月06日(月)

個人的には「才能」という考え方は好きではない。

かといって、「努力」なんて言葉はなるべく口にしたくもないし、頭のなかから叩き出したい。

いつものことだけど、広辞苑をひいてみる。こういう慣れ親しんでいる言葉ほど、厳密な意味を知らないかもしれない。
さいのう【才能】
才知と能力。ある個人の一定の素質。または訓練によって得られた能力。「-を発揮する」「-に恵まれる」

「才知」ってなんだろう。
さいち【才知・才智】
才能と知恵。物事をうまく行う、頭のはたらき。「きらめく-」「-にたける」

「素質」もよくわからない。
そしつ【素質】
個人が生まれつき持っていて、性格や能力などのもととなる心的傾向。特殊な能力などについていう。「画家としての-」


広辞苑をひく前の思い込みでは、「才能」とはうまれつき備わっている能力、すなわち自分の力ではどうにもならないことだった。しかし、解説に「または訓練によって得られた能力」とある。

そうなると、世間一般で耳にする「才能」云々が何を指しているのか怪しくなってくる。ある種の人の口癖になっている「自分には才能がないから」の「才能」が、生まれつきのそれを指しているのか、それとも何かしらの訓練の結果、自覚できた欠如なのかは察するのが難しい。

ただ、自分のことを棚にあげるなら、「才能」という言葉に期待していたのは、「努力」を避けるもしくは怠りたいがための言い訳だ。

才能があるから努力しないでもいいだろう。
才能がないから努力なんかするだけ無駄だ(つーか、したくねぇ)。

どうなんだろうね。

私は高校三年間、それなりにハードな音楽関係の部活動に勤しんでいたけど、最終的にわかったのは、自分には音楽の才能がない、ということだった。決して、努力を怠ってはいない。泣くほど部活に打ち込んだ。同級生のなかには音楽関係の学校に進む者も少なからずいたのだから、自分に能力がなかったという結論に落ち着く。

ところが、たとえば絵の才能については、やはりこれを有していないと思っているが、絵に関する教育や訓練はそれほど受けているわけではない。

今は知らないけど、昭和末期の小学校、中学校の美術の時間なんて、あってないようなものだった。週に一回の授業で、画用紙にお絵かきしたりネンドをこねたりするだけなのだから、それで何か才能が開花するとしたら奇跡だ。

念のため書いておくが、上であげた音楽とか絵の才能とは、単に歌がうまいとか作曲できるとか、絵が上手とか造形がうまいとかという次元の話ではない。個人が趣味で満足する分には、そもそも才能なんて大げさすぎる。

さて、それはともかく、ここは小説家志望のブログだ。音楽だの絵だのの例をあげておいて、小説の才能について触れないのはただの逃げ腰だろう。

でも、怖いよね。終わった話ならともかく、小説家になりたいというのは現代進行形の妄想なんだから、あまり冷静になって現実を認識してしまったら生きていけなくなる。(話はそれるけど、本当に「生きたい」と思っている人間なら、もっと他にやることがあるだろうね。こういうところがダメなんだ、俺は)

しかし、他人のことはなぜかよくわかる。

ネット上でいろいろな方々の作品を読んでいると、本人が気づいていない「才能」を感じることが多くある。なぜ「本人が気づいていない」とわかるのかというと、やりたいこと(書きたいこと)と「才能」を感じる部分が合致していなくて、空回りしているからだ。あー、なんていうか、本人が書きたいことと書けることがあっていないわけで、あまり具体的に書くと角が立つからごにょごにょ。マンガで喩えるなら、絵柄と話の内容が合っていないというような。本人はハートフルコメディを描きたいようなんだけど、できあがったものはどうみてもバイオレンスみたいな? そんなかんじで。

多くの場合は、なぜこの人はこんなに巧いんだ、と嫉妬しちゃうんだけどね。

これ言っちゃお仕舞いだろうけど、「才能」のある人に「努力」されたらかなわないよね。
 

新しい朝が来た

投稿日:2009年04月06日(月)

夜の真っ暗闇じゃなくて、朝日にこそ恐怖を感じるようになってから、もう十年以上経ったよ。

 

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