投稿日:2024年11月22日(金)
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投稿日:2009年04月06日(月)
個人的には「才能」という考え方は好きではない。さいのう【才能】
才知と能力。ある個人の一定の素質。または訓練によって得られた能力。「-を発揮する」「-に恵まれる」
さいち【才知・才智】
才能と知恵。物事をうまく行う、頭のはたらき。「きらめく-」「-にたける」
そしつ【素質】
個人が生まれつき持っていて、性格や能力などのもととなる心的傾向。特殊な能力などについていう。「画家としての-」
広辞苑をひく前の思い込みでは、「才能」とはうまれつき備わっている能力、すなわち自分の力ではどうにもならないことだった。しかし、解説に「または訓練によって得られた能力」とある。
そうなると、世間一般で耳にする「才能」云々が何を指しているのか怪しくなってくる。ある種の人の口癖になっている「自分には才能がないから」の「才能」が、生まれつきのそれを指しているのか、それとも何かしらの訓練の結果、自覚できた欠如なのかは察するのが難しい。
ただ、自分のことを棚にあげるなら、「才能」という言葉に期待していたのは、「努力」を避けるもしくは怠りたいがための言い訳だ。
才能があるから努力しないでもいいだろう。
才能がないから努力なんかするだけ無駄だ(つーか、したくねぇ)。
どうなんだろうね。
私は高校三年間、それなりにハードな音楽関係の部活動に勤しんでいたけど、最終的にわかったのは、自分には音楽の才能がない、ということだった。決して、努力を怠ってはいない。泣くほど部活に打ち込んだ。同級生のなかには音楽関係の学校に進む者も少なからずいたのだから、自分に能力がなかったという結論に落ち着く。
ところが、たとえば絵の才能については、やはりこれを有していないと思っているが、絵に関する教育や訓練はそれほど受けているわけではない。
今は知らないけど、昭和末期の小学校、中学校の美術の時間なんて、あってないようなものだった。週に一回の授業で、画用紙にお絵かきしたりネンドをこねたりするだけなのだから、それで何か才能が開花するとしたら奇跡だ。
念のため書いておくが、上であげた音楽とか絵の才能とは、単に歌がうまいとか作曲できるとか、絵が上手とか造形がうまいとかという次元の話ではない。個人が趣味で満足する分には、そもそも才能なんて大げさすぎる。
さて、それはともかく、ここは小説家志望のブログだ。音楽だの絵だのの例をあげておいて、小説の才能について触れないのはただの逃げ腰だろう。
でも、怖いよね。終わった話ならともかく、小説家になりたいというのは現代進行形の妄想なんだから、あまり冷静になって現実を認識してしまったら生きていけなくなる。(話はそれるけど、本当に「生きたい」と思っている人間なら、もっと他にやることがあるだろうね。こういうところがダメなんだ、俺は)
しかし、他人のことはなぜかよくわかる。
ネット上でいろいろな方々の作品を読んでいると、本人が気づいていない「才能」を感じることが多くある。なぜ「本人が気づいていない」とわかるのかというと、やりたいこと(書きたいこと)と「才能」を感じる部分が合致していなくて、空回りしているからだ。あー、なんていうか、本人が書きたいことと書けることがあっていないわけで、あまり具体的に書くと角が立つからごにょごにょ。マンガで喩えるなら、絵柄と話の内容が合っていないというような。本人はハートフルコメディを描きたいようなんだけど、できあがったものはどうみてもバイオレンスみたいな? そんなかんじで。
多くの場合は、なぜこの人はこんなに巧いんだ、と嫉妬しちゃうんだけどね。
これ言っちゃお仕舞いだろうけど、「才能」のある人に「努力」されたらかなわないよね。
はじめまして。
わたしは小説でもスポーツでも、ほとんどの人間は「皆一様に才能がない」と思っています。だから「わたしには才能がない」とは、わたしは決して口にはしません。だってみんな、才能ないんだもの。
でも確かに飲み込みの早い奴とか要領の良い奴はいる訳で、そういう方を世間は一般に才能があると言うんですね~。しかし話を聞くと、普通の人とはやっぱりやり方が違ったり、考えが独特で、耳を傾けてみると、なかなか参考になるものです。
努力ってそういうところから始めるものだと、わたしは思います。
霧野さんはじめまして。
ブログに書いた文章がほとんど独り言と同じになってしまっている昨今、読んでいただけた上にコメントまで頂戴し、感謝というかなんだか本当にうれしくてたまりません。この一時が楽しいからこそ、ブログを続けられるのかもしれません。
「才能」については、個人的にはかなり切実な思いでいっぱいです。学生の方や若い方が「自分には才能がないんです」というときは、「いや、若いんだから努力したほうがいいよ」といいたくなってしまいます。ところが、私はもう中年の域に達していますから、周囲から直截はいわれないのですが、結果として「才能なかったね」と同情されることが多くなりました。それでも、諦めずに、といいますか、未練がましく小説にすがりついているのは、果たして「努力」なのかというと首をひねってしまいます。
これはまたあとでブログに書こうと思っていたのですが、「努力」とは何か、という話もあります。本人は努力しているつもりでも、出来る人から見たら「それは努力のうちにはいらないね」ということもありそうです。
ともあれ、一番手っ取り早いのは、
霧野さんのおっしゃるように、実際に話を聞いてみることなんでしょうね。私がブログを続けているのは、いつか誰かが現われて小説の極意やヒントを教えてくれないだろうか、という下心もあります。じっさいには、そういう都合のいいことは起きなくとも、こうやってコメントでいろいろなものの見方や考え方に触れられるのは、貴重です。
もしかしたら、境遇というのも、才能のうちかもしれません。
たとえば、モーツアルトなんていう怪物がいましたが、彼は、とてつもない音楽の才能を持って生まれたと人は言います。
しかし、生後、音楽教育に熱心な父親に出会ったことで、その才能を開花できたとも言います。もしも、同じ能力を持って生まれても、普通の家に生まれたいたら、一生、音楽で成功する人に嫉妬する人生を送ったかもしれません。
しかし、同じく作家を目指す人間から言わせると、こうも言えると思うのです。
「その人生もドラマがあっていいんじゃない?」
人生に貴賤などない気もします。後者のような人間も、作家(及び、志望者)にとってみれば、小説の材料になるのです。とても乱暴な結論になりますが、人生は、それぞれ価値があると言える可能でいがあります。
付け加えると、作家(及び志望者)はとても恵まれた存在であると言えます。このように何事も、達観できるのですから、まさに才能に恵まれていると言えます。
uenoさんこんにちは。
「境遇」という大切な要素を見落としていました。
これについては深く再考しないとなりませんね。
尊敬する作家の方々の自伝は必ずといっていいほど幼少期のご自身を過剰なほど謙遜されているものですが、傍観するかぎりは、作家としての才能を育成させるような境遇にあったことは間違いありませんよね。まったく、言葉や文章、小説といったものに無縁でありながら作家になったという話は記憶にありません(もしあるなら興味深いかも)。
そう考えると、本来の私は、アスリートの世界にいるのがもっとも自然だったのかもしれません。なんせ、父親の家系がバリバリのアスリート揃いですから。確率的に考えていいのかわかりませんが、少なくとも作家として資質を持ち合わせているとしたら、突然変異です。
なんてふうに、自分の過去に対してドラマじみた分析をするのですから、面白いですよね。まさに「小説の材料」となってしまうわけです。
uenoさんの解釈に勇気づけられるなら、意外と自分の人生も捨てたもんじゃないですね。
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