投稿日:2009年04月10日(金)
朝から何いってんだ。
ここ数日、気分がなんだか穏やかだ。だから、わりとどうでもいい小説から、そのなかで使われている言葉や表現をメモ用紙に書き出して集めている。自分で書くときの参考にするためだ。
タイトルを書くと角が立つからふせる。あまり特徴やクセのない、一般的な表現を使っている作品を選んでいる。面白い表現や小難しい語彙が多い作品は役に立ちそうで、実のところ、役に立たない。だって、そういうのって真似をするとすぐに、あの作家の影響を受けているね、とかばれるし、それに同じ表現を何回も使うわけにはいかないから、苦労して覚えたとしても使用頻度が極端に少ないので無駄だ。
そこで、自分なりの基準をもうけた。
・自分で書くときにその言葉、表現が自然に出てくるか
→読んで意味はわかっても、自分で書けるとは限らないから
・モノや場所の一般的な名称、呼び名
→例:駅の構内、エントランス、あがりかまち、犬走、土手の斜面等々
・人間の動作や行動を表わす一般的な言葉
→例:足を投げ出す、背中合わせになる、踏みこたえる、シートに身をうずめる等々
・人間の外見や表情、心理を表わす言葉
→例:顔を赤らめる、華奢な体つき、心のなかで弁解する等々
・比喩は無視
→まだ自分はその域に達していないから
これは個人的な判断になっちゃうけど、結局は「読める」と「書ける」のあいだには、絶望的な格差がある。文章を読んで理解する能力と自分で文章を書く能力は別物なのだ(関連しあってはいるけど)。
本をたくさん読めば読むほど、確かに読解力はあがっていく。辞書をひく回数も減っていく。だからといって自分で同程度の文章が書けるわけではない。
そんなことは判りきっているようだけど、いざ自分で何かを書こうとすると、驚くほど単純な言い回しさえ簡単には出てこなかったりして愕然とすることが多い。というか、自分にはそれが多すぎることにやっと気づいた。
もっとも、これって絵とか音楽とかの話になると、いうまでもないことなんだよね。それなのに、文章の話となると、読めるんだから書けるだろう、と錯覚してしまう。(ずっと錯覚し続けてきた結果が、今の私ですか?)
振り返れば、小学生のときは新しい言葉を習うたびに、その言葉を使って文章を作らされたよね(今は知らない)。でも、いつからか(中学かな、高校かな)、新しい言葉に出会っても辞書をひいて意味を知るだけで終わってしまう。
そういえば、英語の授業でも、長文読解は得意でも英作文がまったくできない人が多いと教師が嘆いていた。ちなみに私はアルファベットのDが書けなくて×をもらうぐらいの程度だったので論外だべ。Dの丸みが右向きなのか左向きなのか今でも迷う。
ともあれ、書くための言葉集めにしばらくはまってみるつもりだ。
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