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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月23日(土)

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ニュースって消えるのね

投稿日:2008年10月03日(金)

小説とはぜんぜん関係ない話だけど。

WEB上の新聞社のサイトって時間がたつと古い記事が消えてしまうんだね。去年ぐらいにブックマークした記事をさっき見ようとしたらすでになくなっているんだ。たいした記事じゃないからいいけど、たいした記事じゃないからこそメモをとらずにブックマークで済ましていた。

WEB上の情報が消えないってのは、自分が持っている思い込みの一つだった。実際は、思いのほか簡単に消えてしまう。そりゃ容量の問題があるからね。とくに新聞社のサイトなんかテキストだけでも膨大な量になってしまうだろうから、古い情報は容赦なく消してしまう、これは当然のことだ。

そんなことを考えながら、惰性でブックマークの整理をはじめたら、ニュース以外でも消えてしまったサイトやページがたくさんあることに気づいた。ブックマークするからには、何か役に立つだろうと思っていたのだけれども、役に立てようかなと思ったときにはすでに消えてしまっているのだから、脱力するしかない。404のページをぼうっと見つめながら、ああ俺はかつてここで何を見たのだろうか、としんみりしてしまうのだった。

インターネットアーカイブというサイトは有名だ。インターネット上に存在するサイトを保存しておいてくれるというとてもありがたいサービスだ。過去に一度くらいは感謝しているような気がする。使うことはほとんどないけどね。

※ちなみにここ。
Internet Archive


とりあえず、少しでも有用だと思った情報は自分の手で保存しておくのがいいだろうな。
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世界の影はいつも背中に

投稿日:2008年10月03日(金)

人間の目は顔の正面に二つある。だから、一度に前しか見ることができない。前しか見えないということは、人間はある瞬間においては世界の半分しか認識できないのと同じだ。見ることのできない背中側の世界は、今この瞬間も、ぼんやりとした気配となって俺の後ろに感じられる。

前にも書いたが、もし人間の目が前後についていたらどうなったのだろう。世界はどう見えるのだろう。前と後ろが同時に見えると、世界はどう変わるのか。ちょっと想像できない。その想像できないことを、あえて想像してみるのが、瞑想の一つの方法だと思う。もちろん瞑想であるからには<想像>ではなく本当に<見る>のだけれども。

普段、右の世界と左の世界が同時に見えていることに、何の疑問も抱かない。つながった一つの世界として見えている。ためしに、右目と左目の間、鼻にそって下敷きでも雑誌でもを立ててみるとよくわかる。右目は右の世界、左目は左の世界しか見えてない。だけれども、普通に何の違和感もなく、一つの世界を見ることができるのだ。

だから、もし目が前後にあったとしても、きっと一つの世界として見ることができる。そのとき、世界はいったいどのように見えるのか。いや、世界のなかで自分はどういう存在となるのか、知りたい。真っ暗な、本当の闇である、かすかな気配でしか感じ取れない背中側の世界はなくなるわけだ。

厳密に視角を考慮するなら、目は前後だけではなく左右にもあればいい。4つの目だ。4つの目で世界を見れば、自分は世界の中心の点となる、と思う。

もっと厳密に考えるなら、まだ世界のすべてを見るには目が足りない。頭のてっぺんと足下だ。4つの目ではドーナツ型の世界を見ていることになる。そこにもう二つ、上と下を見る目を足す。そうすれば世界のすべてを同時に見ることができる。もっとも、足下は地面だから、下を見る目をどこにつけるのか問題になるけど。股間? 足の裏?

全方向を同時に見ることができたとき、自分は球体の中心部の点になる、と思う。それがいったいどういう状態なのか、ちょっと考えただけではわからない。わからないけれども、文字通り、世界観はがらりと変わるはずだ。

だから、瞑想してみるのだ。

これを昨日の晩、耽っていた。布団の上にぼんやり座り、球体の中心点となるべく、瞑想に耽っていた。新しい視覚を手に入れるために、瞑想していた。肉体の目はたしかに二つしかない。だからといって、心のなかの世界の目まで、現実の肉体に従う必要はないのではないか。ありとあらゆるアプローチをしてみた。

というようなことをやっていたら、昨日の晩は、もの凄くよく眠れた。



ノート3冊105円

投稿日:2008年10月02日(木)

アイデアマラソン風のことをやろうかと思って買ってきた。今でも一冊のノートにいろいろ書き付けているが、使い方はデタラメだ。しかもメモ用紙まで併用している。ここらでそろそろ方向性を持たせようと思う。

アイデアマラソンとは、以前のエントリでちょっとだけ触れた。アイデア発想法の一つで、一日一個以上の発想を一冊のノートに書き続けていくというものだ。Blogでアイデアマラソンについて書くと、考案者の樋口健夫氏がいらっしゃってわざわざコメントを残してくださった。ありがたいことだ。俄然やる気がでてきた。

※アイデアマラソンの詳しいやり方については公式サイトへどうぞ。
Welcome to the Official Website of Idea Marathon System

まだ会社員だった頃に樋口氏の著書を読み実行していた。常に一冊のノートを持ち歩き、家でも会社でも、思いつくアイデアをどんどん記入していくのだ。アイデアといっても、そのひとつひとつはくだらないちょっとしたものでいい。とにかく言葉にして書き込んでいくのが大事だった。

そのアイデアマラソンを創作用に特化してまたはじめようと思う。今までは、思いつくことはすべてダイソーの9センチ四方のメモ用紙に書いていた。これからはノートに書き込むことにする。媒体がメモ用紙からノートにかわるだけなので、やることはいつもと同じだろうけどね。

今のところ、このBlogに書くネタはまだつきていない。内容はともかく、まだまだ書くことはある。本当はないかもしれないが、言葉だけでもそう言っておく。プレッシャー、プレッシャー。

はじめてのどくしょかんそうぶん

投稿日:2008年10月02日(木)

どくしょかんそうぶんってなに、と母に聞くと「えー。わからない」と答えた。わからない、では困るのだ。初めての夏休み、初めての宿題がどくしょかんそうぶんとやらだからだ。

本を読んで何かを書くことはわかっている。夏休みが始まる前に、クラス全員が図書室に行って一人一冊、本を借りた。借りた本は夏休みの間に読んで、どくしょかんそうぶんを書くのが宿題だという。俺は絵本を借りた。題名は覚えていない。どくしょかんそうぶんを書くための原稿用紙も配られた。自分で買う必要はないのがうれしい。

ところが、肝心のどくしょかんそうぶんが何のことだかわからない。わからないはずはなかろうと言われても困る。このときはまだ小学一年生、それ相応の知能と知識しかない。「かんそう」などという抽象的な概念が理解できるはずもないのだ。

ほんをよんでかんそうをかくんだよ、と俺は先生から言われたままを母に言う。でも、かんそうってなに。それがわからない。母にどんなに聞いても「わからない」の連発だ。自分の親だから言うが、ちょっと足りていない。

8月31日も夜の8時を回った。明日から学校だ。どくしょかんそうぶんをなんとしてでも書かないとならない。すでに俺は半泣きだ。もちろん、自業自得なんて言葉はまだ耳にしたことすらない。母が「なんで最後の日にいうの!」と怒り始めた。知るかいな。気づいたら今日だったのだ。夏休みは終わるものだった。ただそれだけだ。

どくしょかんそうぶんが何のことだかわからない俺と母が出した結論は、本の丸写しだ。本に書いてあることをこの原稿用紙に書き写せばいいんじゃないの、と母が思いついたのだ。繰り返すが、この当時、「かんそう」という言葉が何を示しているのかは俺にはわからなかった。だから、母の言葉に納得して、借りてきた本の文字を原稿用紙に一文字ずつ書き写していった。本といっても絵本だ。小学一年生レベルの絵本なら、文章量なんかたかが知れている。おそらく、今書いているこの文章の一段落文もないかもしれない。でも、このときの俺にとっては、先のまったく見えない、途方もない作業だったのだ。

途中から母が俺の字を真似ながらかわりに書いてくれた。時計の針が指す時間は、小学一年生の俺を不安にさせるだけ進んでいた。もう、子どもの時間ではない。テレビでは見たこともないドラマをやっている。こんな夜中にまで起きている子どもは、世界じゅうで俺だけかも知れない。漠然とした罪悪感と不安感の入り交じった気持ちが涙にかわって目から流れ落ちた。(たかが夜の9時ごろなんだけどね)

「どくしょかんそうぶん」という音の響きが「読書感想文」という言葉に置き換わるのは、それからずいぶん経ってからだった。



右往左往

投稿日:2008年10月02日(木)

自分の考えが、まさに混沌としている。秩序そのものが死んでしまったかのようだ。

冷静に、だ。なるべく「自分」を遠くに突き放して見てみる。俺は何をやっているんだ、と気づく。互いに矛盾する考えが何食わぬ顔で同席していたりする。たとえば、言葉を捨てることに固執していながら、言葉を必死に集めていたりもする。現実を見よう見ようといいながら、抽象の世界に浸っていたりもする。書くことの重要さを噛みしめながら、ただ読書に耽っているだけだったりもする。

まず何をしたいのか。小説を書きたいのか、単に自己恢復のためのワークなのか、それすらはっきりしていない。いや、俺は小説は書きたいのだ。しかし、その声さえも、実は強迫観念が生み出した幻聴ではないかと思えてくる。俺は本当にそう思っているのか。そもそも、「俺」ってなんだ。いつから「俺」が生まれているのだ。Blogに書いているこの「俺」は、いったい何者なんだ。これを書いているのは俺に違いないけど、さっきから「私、私」と呼びかけてくる者もいる。

何だかんだ言いながら、すでに俺は言語の魔術的な力にからめとられていたのではないか。俺という存在そのものが、言語によって生み出されている。言葉を捨てようだなんて、俺は必死に親殺しをしようとしていたのか。それとも自ら命を絶とうとしていたのか。あるいは生んだ生まれたではなく、俺が言語そのものなのか。

ここで液晶ディスプレイを叩き割る幻想を見てみる。

俺の拳が液晶ディスプレイにめり込んでいる。破壊されたディスプレイからは、この言葉の一文字一文字がばらばらと落ちてくるはずだ。そのばらばらになった文字を現実の俺は拾い集めフンと鼻をならす。が、その光景すら、どこか遠いところにあるスクリーンに映し出された空虚な幻影だ。まぼろしだ。どこにも存在しない。俺の頭のなかにも存在していなかった。これが言語の魔術的な力だ。

戻ってきた。

これを打ち込んでいるとき、俺の外にある現実世界は何一つ変わっていないというのに、というより俺自身も何も変わっていないのに、世界が生まれた。それは一瞬なんだけど、ちょっと上を見ればほら、まだ残っている。ここに至るまでに連ねた言葉の数々が真実なのか虚構なのか誰にもわからない。少なくとも、俺の意識はほとんど介入していない。ただ闇雲にキーを叩いているだけのつもりだ。

右往左往からはじめた文章はここに終わる。



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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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