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ゆっくりと小説を書こう

小説の書き方やお役立ち本などを紹介するBlogです。「小瀬朧」名義で第9回ビーケーワン怪談大賞をいただきました。twitterでtwnovelや短歌などを発表中。

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投稿日:2024年11月23日(土)

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今日は3冊購入

投稿日:2008年10月15日(水)

かなりいいものが手に入った。

『ショートショートの世界』 高井信/集英社新書
『文章構成法』 森岡健二編著/東海大学出版会
『決定版 文章がうまくなる講座』 福島哲史/かんき出版

『ショートショートの世界』って、まさかショートショートだけで一冊の解説本が出ているとは――と思いながらぱらぱらめくってみると、サキ、モーパッサン、O・ヘンリの名前も目に入ってきた。かなり幅広く扱っているみたい。読んでみてよかったらまた別に紹介するつもり。

『文章構成法』は出版社からして学生向けかな。珍しそうなので買ってみた。

『決定版 文章がうまくなる講座』は、対象は誰だろう。文章に興味がある一般の大人向けかな。いわゆるハウツー本か。わかりやすそう。

BOOKOFFはいいね。気軽に買えるよ。105円だったらとりあえず買ってみてから中身を判断できる。それはいいとして、今回のも書き込みがすごいなあ。蛍光ペンまで使ってある。勉強熱心な人が売ったのね。

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文章は砂の城

投稿日:2008年10月15日(水)

書いていた文章が突然消えてしまう。よくあることだ。

エディタの場合、パソコンの不調や操作ミスでデータが消えてしまうということは希にある。自動保存が設定してある場合は致命的なことにはならないが、それでも自動保存されるまでの間に書かれた文章が消えてしまうのはショックが大きい。

Blogの場合は、もう何回も経験している。本当についさっき、およそ800字分ぐらい書いた文章が、なんだかよくわからないけれどもブラウザが閉じてしまい消えてしまった。実生活において「呆然とする」のは、まさにこのときだ。演技ではなく、身体の動きが止まってしまう。目を見開く。くちびるが何かを言いたそうに微妙に振動をはじめる。頭をかいてみる。「え」と声をだしてみたりする。自分が変な呼吸をしているのに気づく。下あごをゆっくりと力を込めながら小さく回転させるように動かす。思い切り、息を吸う。

ちくしょう!

家の人がいるので声に出さず心で叫ぶ。机を殴る拳をぎりぎりのところで止める。

まあ、いいか。


こんなとき、俺は砂の城を連想する。砂浜で作っていた砂の城が、突然崩れ落ちる。俺は呆然とする。ある人は言うかもしれない。もう一度作ればいい、と。たしかにそうだ。さっきまでの城を構成していた砂はまだそこに、ある。しかし、同じ砂はそこにあっても、同じ城を作ることは、難しい。材料の問題ではないのだ。

文章も同じなのだ。文章を構成していた語句は頭のなかに、ある。けれども、それらを使ってもう一度同じ文章を書くことは、難しい。記憶力のある人なら、一字一句再現できるかもしれないが、それは置いておく。もう一度書いたとしても、最初に書いたものとはどこか違う文章になってしまう。

ちなみに、そんな気分を詠ってみたのがこれだったり。

ゆとしょ! ゆとりある俺の小説ブログ 観念の砂浜

それはともかく、今回のこれは消える前に保存だ。



書き直すということ

投稿日:2008年10月14日(火)

しかし、古い自分の作品を、今の自分の考えで書き直してしまうのはいいことなのだろうか。

俺は純粋信仰とでもいうべきものにとらわれている。純粋信仰という言葉が実際に存在するか知らないが、俺がいうのは純粋への信仰心のようなものだ。すなわち、純粋なものにこそ価値があり、純粋であることが至上の喜びである、と。

だから、作為を嫌ってしまう。さらには、「作為」だけではなく、「作意」さえも嫌悪の対象になってしまう。推敲は悪であり、書き直しは堕落だ。知性に汚されていないまっさらな自分からの、生まれたままの言葉にこそ価値があるとする考え方だ。

もちろん、こんなのは間違っている。自分でもおかしいと思う。いや、おかしいと思わねばならない。これは創作の全否定だからだ。

純粋へのあこがれは、子どもへのあこがれでもある。子どもの何気ないつぶやきにドキリとしたり、ときには世界の真理を垣間見たりすることは、よくある(言うまでもなく、それは錯覚なのだが)。だからといって、大人になった自分が子どもへ戻ろうとするのは、信仰なんかじゃない。ただの退行なのだ。

今回もよくわからない。自分でもよくわからないから文章にしてみているのだが、なおさらわけが分からなくなる。

とりあえず、昔の作品を否定するのではなく、あくまでも新しい創作のタネとして尊重することで自分に折り合いをつけようと思う。

ある河原で

投稿日:2008年10月14日(火)

どこか遠くでベルが鳴る 私は河原に立ちつくす
あれは何のベルだろう 耳の奥で響いている

私は河原で遊んでいた 石を集めて積んでいた
賽の河原を真似ていた いつか菩薩に救われますよう

列車が走る赤い鉄橋 私は河原から見上げている
あれは私が乗る列車だった あれに乗ってきたのだから

私はもうどこにも帰れない ベルの意味に気づかなかった
河原から駆け出すと 水に濡れた靴が乾いた地面に足跡を残す

その足跡を辿って 河原に忘れてきたはずの邪な精神が
私を今も追っている だから

私は今も逃げている

母は俺に千円を渡した

投稿日:2008年10月13日(月)

ショッピングセンターの駐車場で、俺はクルマのなかで待っているから買い物をしておいで、と母に言うと、おまえお金無いんでしょう、と母が千円札を一枚差し出した。惨めという感情がなくなるほど、俺は落ちぶれていたから、何のためらいもなくそれを受け取った。いつか何百倍にでもして返すから、と俺は心のなかで呟くのだが、その「いつか」を迎えるためには、母の寿命はもう短すぎるのだった。もちろん、俺のも。俺はクルマを降り、母からもらった千円札をズボンのポケットの奥深くにしまい込むと、ショッピングセンターに併設された書店へ向かった。

俺は母からもらった千円で、バタイユを買った。


今回購入した本は二つ。前回、集めたいと思った光文社古典新訳文庫からバタイユとフロイトを一冊ずつ選んだ。

光文社 古典新訳文庫

バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平・訳
フロイト『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』中山元・訳

フロイトはもう一冊あって、中山元氏が最近好きなので買うべきかと思ったけれども、バタイユがどうしても読んでみたかった。訳はあの(どの?)中条省平氏だ。以前の訳(『眼球譚』というのかな)は読んだことがないので比べようがないけれども、非常に読みやすいと思う。訳者あとがきに書いてあるが「今ふうの文章」なのだ。ところが、中条省平氏はこの改訳には積極的な野心があったと告白する。
 論理的であらねばならぬ、というのは言語の使用法に関するバタイユの愚直なまでの信念だが、生田バタイユは、漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさとで、バタイユ的な散文性、考えてみればよく分かる論理的な連関をすっ飛ばしていることが意外に多いのである。日本語の勢いとかっこよさで、少々分かりにくくても突っ走ってしまう訳文とでもいえばいいだろうか。今回の新訳では、このバタイユの論理性、よく考えれば分かる愚直なまでの道すじを回復することが最初の狙いだった。
(『マダム・エドワルダ/目玉の話』訳者あとがきより)
原著で読まない限り、誰が翻訳したものを読んだとしても、元の雰囲気ないし味わいが完全に伝わることはない。しかし、それでも話の内容までもが変わることはないだろうと思っていたが、中条省平氏は「バタイユ的な散文性、考えてみればよく分かる論理的な連関をすっ飛ばしていることが意外に多い」と指摘する。俺自身は、漢語まみれの訳の分からない文章を読んで無理矢理ありがたがるより、「バタイユそのもの」を読みたいと思っていたので、中条省平氏には敬意を表するしかない。(だったらフランス語勉強しろ、ってのはカンベンね。)

フロイトは中山元氏の訳なので期待している。こちらもぱらぱらと見たかんじではとても読みやすそうだ。



母が俺を呼んでいる。夕食だ。俺は母からもらった千円で買った文庫本を机におき、居間に向かった。

夕食は特売89円のインスタントスパゲッティだった。





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プロフィール

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小瀬朧
性別:
男性
自己紹介:
創作怪談、twitterの短文小説#twnovel、短歌など。
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